引用

明日があるさ

いつもの駅でいつも逢う セーラー服のお下げ髪
もう来る頃 もう来る頃 今日も待ちぼうけ
明日がある 明日がある 明日があるさ

ぬれてるあの娘こうもりへ さそってあげよと待っている
声かけよう 声かけよう だまって見てるボク
明日がある 明日がある 明日があるさ

1961(昭和36)年生まれの僕でさえ、うる憶えな、楽曲「明日があるさ」の一節です。作詞は青島幸男さん、作曲は中村八大さん。歌唱されたのは坂本九さん。でも1963(昭和38)年の年の瀬に発売されたときには大ヒット曲となった楽曲です。2000(平成12)年、この楽曲をテーマにしたCM(ダウンタウンの浜田さんを中心に吉本芸人オールスター出演みたいな)が話題になり、ウルフルズが歌ったこの楽曲もリバイバル・ヒットします。当時も暗い世相でしたが、そういう日本を明るくしていこうというコンセプトで製作されたというCMを庶民も喝采で迎えたというわけです。

でも、今はもう「明日があるさ」に賛同でき、共感できる状況ではなくなってしまいました。
「明日があるさ」と歌われても、絵空事か皮肉に聞こえます。

「明日があるさ」というようなファイト感はなく、もっと諦めムードなのが本音です。

「明日があるさ」は、今の自分を脱して、あしたは違う自分になっているという希望でもあります。
1963(昭和38)年頃は、多くの人がそう思えたのでしょう。今は昔の話です。

引用

800 TWO LAP RUNNERS

本筋は陸上競技(部活)を背景にしたボーイズラブ込みの高校生な恋愛物語です。でも、僕が好きなのは、主人公の一人が生まれ育ったテキ屋の幹部である唐十郎さんと、場末のスナック・ママにしては清楚すぎる斉藤慶子さんが、往年の南沙織さんのヒット曲「ひとかけらの純情」を、息を合わせてスナック・カラオケでデュエットするシーンです。

800いつも雨降りなの
二人して待ち合わす時
顔を見合わせたわ
しみじみと楽しくて
  

筒美京平さん作詞の、この唄い出しを、ホントにしみじみと楽しそうに唄う…見つめあったりしてね。

この映画の野村祐人さんも大好きですが、それ以上に、場末スナックのデュエット・シーンが好きなのです。

たぶん。僕が好きな街の匂いがするんでしょうね。フツウの道を歩いてこれなかった人が束の間でも幸福そうにしている雰囲気があれば、僕も幸せな気分になれるのでしょう。

それから本筋の部分については、この映画の原作小説「800」(川島誠さん作)もお勧めです。陸上競技における800m走には短距離とも長距離ともつかない不思議さがあるんだそうですが、たぶん大人でも子どもでもない思春期の若者のメタファーが800m走だったのでしょう。ぐいぐい引き込まれる作品です。

いずれにせよ。言葉で活写されているが、言語的ではなく薫るような映画であり、小説です。

映画「800 TWO LAP RUNNERS」(1994年)
監督 廣木隆一 出演 松岡俊介/野村祐人/有村つぐみ/河合みわこ/袴田吉彦

小説「800」
川島誠 作(現在は角川文庫 2002年)

引用

「そこ」ではなく、ここにある山

さて、ちょっとした たとえ話し…

昔、バイカル湖には、たくさんの魚がいた。漁師もたくさんいたが、穫りきれない魚がいた…ところが、ある日、そこへ銀行がやってきた。そして「もっと大きな船と機械を買えば、もっとたくさん魚がとれますよ」と、漁師たちに触れて回った…最初は、漁師たちも断っていたのだけれど、銀行は「私たちがお金は貸します。たくさん魚が穫れれば収入を増えるのだから、お金は返せますよ。もちろん、分割でいいですよ」と。

そして、漁師たちは、銀行からお金を借りて大きな船を買った。もちろん漁獲量を倍増させ、収入も倍増して、みんなは贅沢をすることができた…街は一変した…

ところが、ある日、魚が一匹も穫れなくなった…「魚は穫りきれないたくさんいる」と誰も心配しなかったが、結局、魚を穫り尽くしてしまったのだ。そして、漁師たちには、返しきれない借金だけが残った。銀行は、借金のカタに船を取り上げ、家を取り上げて去っていった。

まぁ、これは漫画みたいな話しです。
でも、大きなお金が動くことと、環境がどういうふうに関係しているのかということが、よく言い表されている話しではあると思います。だから、僕は企業の「環境への取り組み」を監視するだけでなく、その資本の大きさというものにも留意してく必要があると思います。

51OvGbCv93LかつてNHKーBSで放送されたドキュメンタリー番組「エンデの遺言–根源からお金を問う」(1999年)。その番組を1冊の本にまとめた河邑厚徳さんの著作「エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと 」(NHK出版/文庫版 講談社+α文庫) 。著作について、紀伊国屋さんのwebショップの解説には「ファンタジー作家ミヒャエル・エンデに導かれて『暴走するお金』の正体を探りに旅立つ。『老化するお金』『時とともに減価するお金』など、現代のお金の常識を破る思想の数々を紹介する。欧米に広がる地域通貨の実践―米国のイサカアワー、ヨーロッパの交換リング、スイスのヴィア銀行などをレポートする。」とあります。

なぜお金持ちは寝ているだけでお金が増えるのか?
なぜたくさん働いてもお金は消えていくのか?
なぜ借金がこんなにかさむのか?

エンデのファンタジー世界からお金の本質が見える…

この本を読んでいても思うのですが、たとえ話にあるバイカル湖くんだりまで銀行が出かけなければならないのは、毎年、企業規模を拡大しなければ、株主に怒られちゃうからなんでしょう。そして、株主たちは、そのことによって自然環境が破壊されてもおかまいなしです。でも、お金こそがフィクションですから、いくらでも書き換えが効くわけです。だからグラミン銀行みたいな銀行もあるんだし、環境に貢献する企業にこそ投資をしようという株式市場もあります。もちろん「時とともに減価するお金」だって現実のものにしようと思えば現実にできるわけです。

それを阻んでいるものがあるとすれば「人間の欲」それだけでしょう。

産業活動、つまり企業の活動が環境に大きな影響を与えてきた(もちろん、消費者としては、そうしたことに僕らも加担して来たのですが)。そういうことは(僕らも)百も承知です。でも、お金持ちになりたいし、そういうことで羨望の眼差しを浴びてみたい…

越えていかなければならない山は自分の中にあるのかもしれません。

 

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと
河邑 厚徳/グループ現代 著  講談社+α文庫

引用

加 飾

この本の出来不出来については諸説あります。僕にも判断はできません。
いずれにせよ。出版社がそうさせたのか、執筆者ご本人の意思なのか、この書籍以外に橘さんによって、この事件を殊更に掘り下げようとした形跡は公には見受けられないように思います。

でも、それほどに難しい事件だったのだと思います。

セレブモンスター

彼らにとって、どこまでが虚構で、どこまでが現実だったのか…
リアルに自分が体験している人生、その現状に納得できずに、自分を加飾し、加飾するために費やされる時間はなかったことにする。世間に評価される作法は全うしたいし、自分らしくもありたい。そのうち、リアルとフィクションの境界に自分では処理できない矛盾をはらんで現実が襲いくる…

リアルがすっぽりと抜け落ちているのに、それを承知で、そのリアルを生きていこうとする…犯人にも、そして被害者にも、そういう恐ろしさがあり違和感があります。

たぶん「これまで」からの類推をまったく拒んでいるような事件なんでしょう。ノンフィクション作家の河合香織さんも雑誌G2(講談社:現在休刊中)で、少しルポルタージュを試みて(vol.6 2010年)おられますが、やはり未消化のうちに筆を置かれています。

僕らの人生はすべて現実なのでしょうか。疑えばきりがないようにも思いますし、逆に気にしなければすべてが現実のようでもあります。

事件が起こったのは2006年の12月でした。その後、こうした違和感にもあまり驚かなくなった自分がいます。

セレブ・モンスター―夫バラバラ殺人犯・三橋歌織の事件に見る、反省しない犯罪者
橘 由歩 著  河出書房新社 2011年

引用

世の中は

51OPICURrFLそういえばドラマ版「深夜食堂」(MBS製作/TBS系にて放送 2009年〜)にご出演のオダギリジョーさんの最後のセリフも「世の中は」ではじまる句でしたね(川柳かな)。思い出しました。

ドラマも大好きですが原作もおすすめです。

それにしても、こういう話が多くの人に愛でられるっていうのは、孤独な都会の面積がいかに広範になり、いかに「場所」がなくなっているかということの表れでもあるんでしょう。ドトールやスタバにマスターと常連の関係はありえませんし、ワタミだってそうです。ひたすら東京砂漠なんでしょう。

深夜食堂
安倍夜郎 著  小学館 刊(ビックコミックオリジナル)
今は13巻まで出ているんだったかな。

引用

ただ、見えないだけ

この本の中で、小沢昭一さんは、敗戦直後の下町にあって(オヤジ方の)わがご町内の存在がいかに貴重であったか、有難かったか、心情たっぷりに語っておられます。
正確に言えば、小沢さんが浅草の範疇に数えられているうちの方は、あえていっても元浅草で、浅草じゃあないでんすが、あの周辺で唯一焼けなかったわがご町内は、敗戦直後の時代を生きていた東京人にとって、珠玉のように、貴重なものだったということなんでしょう。

asakusa有難いことに、わがご町内は、東京オリンピック前後の開発ブームは免れていたので、僕は、夫婦漫才の師匠や、レンズ磨きのおじさんたちが混在し、うちの隣はそろばん塾という、昔ながらのご町内を経験することができました。でも、子どもの頃から、その時間と空間を当たり前のものとして過ごしてきた僕は、その貴重性を殊更に意識することもなく、尊敬する小沢さんの、短いけれど、ひしひしと伝わってくる思いに触れて、ようやく、その有難さを理解したというのが正直なところです。

しかも、そうやってちゃんと認識できるようになる前に、わがご町内の「ご町内らしさ」は、バブルを前後して完全に消滅していました。

(銅ぶきの看板建築が次々になくなり、銭湯がなくなり、誰それが引っ越すだの、どっかにマンションを買ったのだのという話しが続き、あっという間に、雑居ビルとマンションの街になってしまいました)

あの頃、たまたま、どっかの大学で、わがご町内の開発計画を耳にしたことがあるのですが、なんだか、理科の実験で解剖されるカエルの気持ちがわかったような気がしました。先生の有難いのお話を聞きつつ、何が街づくりだ、グランド・デザインだ、よそ者が何を言ってやがると思い…、すでに似たような仕事をしていた自分自身をも呪っていました。

(その開発計画は幸いにして実現しませんでしたが)

とにかく、再開発っていうのは空襲以上の破壊力を持つこともあるということです。しかも味方どうしの殺し合いみたいなもんです。

一定の時間、ビジネスをすると、成功した人ほど東京に引き上げてしまうヨコハマとは違って、東京には、その土地に定着する、よき中間層が育ちつつあります。確かに大震災や空襲などの風雪はありましたが、それでも残る家もあり、街場の文化を洗練に導きつつあったわけです。それを前の東京オリンピックが破壊し、1980年代末のバブル経済が空虚なコイン駐車場に変えていった…

なんと惜しいことか。

街文化の熟成には時間がかかります。イベントのようにお金をかければ「それなりに」というわけにはいかないものです。街かどに、その街文化が薫るようになるまでに、あっさりと数百年の時間が必要だったりします。その「悠久さ」を一時のお金儲けのために分断してしまうことは、過去の人々からも、未来の人々からも歓迎されないでしょう。

可視できないからといって、そこに何もないわけではなく、歴史は、過去から未来へと確実に流れているもの。

ただ、見えないだけなのです。

ぼくの浅草案内 小沢昭一 著 筑摩書房 刊(ちくま文庫)

引用

なんでみんな人に託す?

森まゆみさんと中島岳志さんが、戦前な昭和に至る歴史を語りながら東京を散歩するという「帝都の事件を歩く ー藤村操から2・26まで」(亜紀書房 2012年9月)に以下のような会話が記されています。

森  東日本大震災後、後藤新平待望論のようなものがあります。もう一度、ああいう人が出てこないかというような。昔から、混乱すると強いリーダーを求めると言われますが。

中島 そういった待望論の最も先鋭化した形が、現在では大阪の橋下人気なのでしょう。

森  なんでみんな人に託すんでしょう。それがよくわからない。あてにならない民主党なんかに頼らず、自分たちで何か行動しなければダメじゃないと思うんですけど。いっぽう原発デモでは若い人が相当、貧困や失業の鬱屈を東電や政府にぶつけているような気がします。

teito_no_jiken2012年の段階で、こうもズバッとおっしゃられているんでびっくりしましたが(他で、こんなに「ズバッと」なのを見たことないような気がして)「なんでみんな人に託すんでしょう。」は僕の不思議でもあります。何度も裏切られてきているのに、また「託す」…

あとがきでも、森さんはこう書いておられます。

他力本願な英雄待望論も散見するが、もっと悪い方向へ向かいそうだ。鬱屈のはけ口のように、テロや暴力沙汰が起きることは望まない。スピリチュアルやカルトに逃避することも危険ではなかろうか。結局、国がどのように揺れようとも、情報を集めて解析し、自分の頭で行動し、たやすくはめげない仲間たちの輪をつくることが大事だと思う。誰でも参加でき、誰も排除されないような場所をつくれば社会は暴発しない。

全く同感です。

僕などには「たやすくはめげない仲間たちの輪をつくること」の具体像は掴めませんが、考えつつ、行動に移しつつもあります(まずは「仲間」ありき…ではありませんが)。とにかく「安心」は誰かがくれるものではない。自分で「安心する」もんだとは思っています。

帝都の事件を歩く ー藤村操から2・26まで  
森まゆみ・中島岳志 著(路上対談)/亜紀書房 2012年 刊

引用

どこか虚しいのは

yuasa2012(平成24)年の8月の初版だったのかな。湯浅誠さんの著作「ヒーローを待っていても世界は変わらない」(朝日新聞出版)。当時、頻繁に学校に顔を出していたので、かなり話題になっていたのを記憶しています(公共政策学専攻ですからね)。

この著作の主たるところには、この国の民主主義の(市井における)現状やら、それを取り巻く人々の感情、役所の現状などが述べられています。
さすがは湯浅さん。「机上」を遠く離れた重厚感と説得力を持った筆致です。

僕自身もお役所との付き合い、かれこれ30年。民間の企業とも仕事上の関わりを持ってきましたから「タテ割り」は、なにもお役所に限ったことではないこともよく存じ上げています(民間企業でさえ、再開発の開発部署が残していったレガシーみたいなものを、それと解っていて壊そうとする管理部署の存在があるものです)。そんな彼らは、企業市民だ。メセナだ。フィランソロピーだなどという風潮があった時代も、それをいかに形骸化してしまうかに腐心し、お役人も内実は「私人としての就業者」ですから、まったくもって「公」は不在。論拠なく「誰かがやってくれる」と無邪気に思い込んでいる節もあります。

我田引水というか、反知性主義というか…

残念ながら日本は本来の意味でのソーシャルワークが弱い。「ソーシャルワーカー」と呼ばれる職員さんたちはいろいろな分野にいますが、その方たちがソーシャルワークをやっているかどうかは別の話です。

湯浅 誠 著「ヒーローを待っていても世界は変わらない」147頁

そういう日本に「日本ってそうなんだよ」という本を、ものすごい説得力で書いて、それで何になるのか。
僕などは、もう行動に出る人はとっくに行動に出ているだろうし、やっぱり「フツウ」を選択する人に「イチ抜け」はホントウに至難の技なんだと思ってしまいます。

広域に訴えるような本にしたのは、ひょっとしら編集者さんなのかもしれませんが、やっぱり湯浅さんが取り組まれてきたように市井の見える場所で実践(行動)を積み上げるしかないのでしょう。

というわけで、確かに「間に合うかなー」とは思うのですが、さりとて王道はなさそうです。