根 治

根治…辞書には「病気・悪弊などが根本から完全に治ること。また,治すこと」と語釈されています。

当然のことながら、僕が病を得たら、お医者さんには「根治」を望みます。少なくとも、その姿勢を持つことを望みます。でも、最初から「根治」を目指さず、自分に無理せず、できる範囲内で「いかにもやった」ように仕事をすることも可能です。お医者さんに限らず、そうです。

むしろ、それが一般的な就業姿勢のスタンダードかな。「根治」を目指したら、かつての「踊る大捜査線」の青島刑事のように煙たがられるのがオチでしょう。「お前、熱過ぎ」などと言われて職場では村八分というわけです。

そして、生活の力点は趣味やアフター5の時間にかかっている。わが国が労働生産性の低さは先進国中でもワーストな感じである所以です。でも、組織や集団に働いていれば匿名性な森に隠れていればいい。誰が犯人だか、犯人がいるのかさえわからない…

ただね。

だからこそ、企業はAI化を急ぐわけです。労働生産性が低ければ、株主にはせっつかれるし、大義名分も立ちやすい。

とはいえ、遅くとも現在50歳代も半ばの僕が10代の頃から周囲の風潮はこうでしたからね。「だるいよ」「かったるいよ」で、集団的なサボタージュが就業者のレギュラーです。

むしろ、AI化をもっと急いで、ベイシック・インカムの実現を目指した方がいいのかもしれません。

(「趣味」を収入に結びつける道も、もっと広範な参加が可能になるように工夫した方がいいですが、こちらは「千三つ」ですからね)

いずれにせよ。「前の時代」は爛熟期を過ぎて腐りかけているのは事実でしょう。

少数の自ら開拓できる人は別にして、大半の人たちは、誰が「次」を指し示してくれるまで「ジリ貧」の中を座って待っているのだと思います。

この国も、アメリカ合衆国のことを笑っていられる状況じゃぁありませんからね。

かつてのカウンター・カルチャー

カウンター・カルチャー…辞書には「ある社会に支配的にみられる文化に対し,その社会の一部の人々を担い手として,支配的な文化に敵対するような文化。敵対文化」とあります。ややもすると「逆らう」がファッションです。

カウンター・カルチャーって、工業生産で富国しようとする政府が子どもたちを公的な学校教育で粒ぞろいの部品に仕立てようとしていくとき、その子どもたちの自然な命が、その風潮に争って顕在化していくのかなと思います。命の叫びですから、それは理性的なものではなく、衝動的なもの。故に、何に逆らっているのか、誰に逆らっているのか、どうして逆らっているのかも判らず、だんだん粗暴になっていく…それが自然な流れなのだと思います。

つまりカウンター・カルチャーって成就する中身もないのだろうし、一方で衝動的になりきれない(理性を消し込むこともまた不可能である)人間としてはだんだん虚しくもなっていくでしょう。

そうしたことから、三田誠広さんの「僕って何」ではないですが、私に帰っていこうとする向きもあるのでしょうが、衝動的なレジストだったから故に「学校教育で粒ぞろいの部品に仕立てよう」には実は無抵抗。気が付いたときには、平板で規格品的な部品としての自分しかなく、ほとんど個性は残っていなかったというオチまでついてしまうのが常でしょう。

カウンター・カルチャーしか知らない人たちは、これからどうしていくのかな。工業生産時代の申し子なのだからたくさんいらっしゃるはずです。

しかも標準世帯時代な彼らは多くの場合、子育てもしている。彼らの遺伝子は彼らの息子や孫に受け継がれてもいるはずです。

でも、彼らの息子や孫が、彼らの親世代にカウンター・カルチャーすれば違ってくるかな。

街かどには、そういう兆しも見えなくもないかもしれません。たんに複写機ではない自分を持っている、そんな「私」を持っている若者が、ふっと自分らしく生きているなら、彼らは、かつてのカウンター・カルチャーとは無縁の人々です。

三百六十五歩のマーチ

「三百六十五歩のマーチ」って、ああ、正式には「三百六十五歩の」って書くのかって、それすら初めて知ったとういうほど、僕にとっても遠い過去=子どもの頃のヒット曲。この楽曲は1968年(昭和43年)のミリオン・セラー、唄ったのは水前寺清子さん。当時としては、「大人から子ども」まで(水前寺清子さんのファンであろうとなかろうと)口ずさんだというミリオン以上の大ヒット作でした。

(若い方にはご存知の方も少なく、知っていたとしても、すでに戦後史の中のデータの一部のようなものでしょう)

しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね。
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ
汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ
きれいな花が 咲くでしょう

腕を振って 足をあげて
ワン・ツー・ワン・ツー
休まないで 歩け
ソレ ワン・ツー、ワン・ツー
ワン・ツー、ワン・ツー

何が言いたいのか、よくわかりませんが、雰囲気としては分業制の工場労働、その労働歌のようです。「辛いだろうが、余計なことは考えずに、休まないで働け」といわれているよう楽曲でもあります。

でも、1968年(昭和43年)の日本人は、この楽曲を好感を持って受け止めた…

考えさせられます。

僕も、低学年の小学生でしたが、あの時代の日本に居ましたから、よけいにそう思います。

ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー
ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー
ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー

この部分だけが異様に記憶に残っています。

(運動会で使ってたかな…)

なんだかわからない呪文に踊らせていた当時の日本人。日本社会。
当時の首相は佐藤栄作氏
安倍さんのおじいちゃんの実弟でした。

四代の物語

平岡家は今でいう加古川市の在…粗末な家に住む貧農だったそうです。
平岡公威、後の三島由紀夫さんの曾祖父=太吉の代になって、彼が禁猟になっていた鶴を射たことから「所払い」になり(つまり、江戸時代の話です)、彼は塩田の人夫になります。そして苦労の末、貸金業で成功する。でも、まぁやっぱり、あこぎな金貸しだったようです。

彼の息子=三島氏の祖父=定太郎は、父上の資金力もあって、今の神戸大学、二松学舎、早稲田大学、東京大学と勉強を重ねてキャリア官僚として内務省に入省します。
これは僕の推測ですが、彼が加古川を離れ、最終的に東京の役所を目指したのは、父親=太吉には「いんぎんな金貸し」というイメージが定着していたということに拠るのではないかと思っています。やっぱり居ずらかったんでしょう…お役人を目指したのも、そうした世間の目があって「公」な出世が欲しかったんだと思います。武家から妻を迎えていることからも、そうした上昇志向が見て取れるように思います。

いずれにせよ、定太郎さんは福島県知事から樺太庁長官になります。しかし、政界がらみというか、政友会のために金をつくってやろうとして無罪にはなったけれど、汚職の嫌疑をかけられ、長官を辞職していますし、当時の中国大陸でアヘンの売買に手を出していたという話しもあります(これも政友会の資金づくりのために)。

そして定太郎の息子、三島さんの父上である梓は、開成中学、二浪して一高から東大。キャリア官僚になりますが、希望の大蔵省に入れなかったせいか「仕事熱心でないこと」で有名だったようです。ただ、息子を官僚にすることには熱心で、文学部志望だった三島氏を法学部志望に変えさせ、実際、彼を大蔵官僚にしまします(もちろん、キャリア)。

この四代の物語をどう読みましょう。

きょうの「ゴロウ・デラックス」(TBSテレビ)でも、ゲストの岩下尚史さんと稲垣さんが三島文学のテーマは、常に「死であった」と語っていらっしゃいました。三島から数えて4代前の太吉は何を思って金貸しになったのか。祖父=定太郎氏は、キャリア官僚なのに、なぜ、危ない橋を渡ってまで政党に資金を提供しようとしたのか。三島氏の父上は、なぜ虚弱な三島氏を無理に大蔵官僚にしようとしたのか…

全ては、太吉が鶴を射なければ、
そして加古川の「世間」が彼を所払いにしなければ、始まらなかった物語なのかもしれません。

僕らは三島由紀夫さんから大きな所産を与えてもらいましたが、彼は幸せだったのかな。

(彼の父上もおじいちゃんも、ひいおじいちゃんも…)

きょうの「ゴロウ・デラックス」を観ながら、ふっと、そんなことを思いました。

そもそもは「ドラムは(電気楽器じゃないから)いいがエレキベースはダメ」という制約があった公立のホール(当時)との交渉役になったのが始まりでした。以来、もう30年近く、お役人とつきあってきて、たまには、まさに「公のため」に心血注いで働く、お役人の鑑のような人に出会うことがあります。でも、そういう人に限って役所の中では変わり者とされ、煙たがられています。つまり、お役所とはそういうところです。

棄 民

好んでマニュアル・レーバーを選択する人もいます。そして、ネット・ショッピングや「まとめサイト」的なものを閲覧するともなしに時間を潰し、どこか空虚な気分を抱えながらアマゾンのプライムビデオを観て、ときどきは誰かと居酒屋チェーンでフェイクなお酒を飲む…

つまり、マニュアル・レーバーか、与えられたエンターテイメントの中に生きている。もちろん量産な既製品ですから、満足感も「ほどほど」です。でも、誰かからカードが与えられなければ「無」。自ら仕事を創り出すこともできないし、余暇時間を創造することもできない。「自分でつくりだす」ではなく「既製品の選択」が全てなのです。

でも、今、この国に生きている人々のマジョリティは、こんなふうに生きているのだと思います。

好意的な見方をすれば「何事にもこだわらない」ともいえるし、質的な評価に踏み込めないともいる。別の見方をすれば、その辺に転がっているもので済ませる「面倒臭がり」ともいえるでしょう。でも、大量生産・大量消費の時代にはもってこいの就業者であり消費者の像だといえる…つまり、個々人の性質というより、行政による教育の賜物なのだと思います。

「ホンネとタテマエ」の「タテマエ」。この部分については、自分の意思に反してもパブリックに従っておく。小さな庶民としては、ある意味、戦略的な処世術だとは思います。でも、従っているうちに、パブリックを主導する行政機関などに「ホンネ」の部分までもが洗脳され、知らず識らずのうちに書き換えられてしまう。

庶民は「ご提案」という名の洗脳には無防備でした。

そして、戦後も親子三代です。じいちゃんからして「少国民」な洗脳の中に育ち、みんなと同じように洗濯機や冷蔵庫、テレビを所有することに幸福を見出す自分に疑いを持つこともできず、ただただ実直に働いて来た人です。もちろん、余暇を過ごすのは大量に複製された歌謡曲やヘルスセンターのようなマス的娯楽施設です。その子どもや孫は、さらに、そうしたことに疑いを持たずに成長し、今もスマホのゲームで時間を潰し、マニュアル・レーバーに働いているわけです。
これからも工業生産時代が続くなら、それでもいいのかもしれませんが、それは加速度的に過去のものになっていっている。「より安く」を消費者が望む限り、工業生産は海外に流出し、人件費が上がれば国内の労働市場も国際的な競争に巻き込まれていきます。

でも、今から知価(情報)生産に移行しようとしても、下手をすれば、じいちゃんからして、指示通りに「複写する」の経験しかなく、ゼロから何かを想像した経験値に乏しく、消費に明け暮れて来れば文化資本の蓄積にも乏しい…そんな感じなのかもしれません。

かつての行政なら、こうした人々を移民にして追い出したり、兵士にしようとするのでしょう。酷い話ですが、絵空事ではないことは歴史が証明しています。

…これからどうなるのかな。

すでに就業者としては外国人やAIにとって脅威ではなく、行政は税率を上げながらサービスを低下させ、高齢化が介護負担を強い、そして就業は不安定。消費者としても充てにされなくなっていくでしょう。もちろん彼らをターゲットにしたビジネス物語も描きにくくなるのだと思います。

(ユニクロもビジネスというよりは公的なインフラになってしまうのでしょう)

バブルの傷跡も癒せず、さらにリーマンショックに畳み掛けられ、それでも「これから高度成長期」というような時代のように土建な経済振興は続いています。

満州開拓団のみなさんを襲った悲劇、樺太に取り残された人たちの悲劇。戦後のドミニカ移民のみなさんのご苦労を思います。

お役人にとって、僕らは「処理すべきデータ」に過ぎないのでしょう。前川喜平(前文科省事務次官)さんのような方はごく稀な存在です。だから、信じて待っているのは危険です。第二次大戦中に行われた「虐殺」ともいうべき行為も、しばしば行政内の権力闘争などが起因で、それで庶民はゴミのように焼き殺されたりし、今もいたるところに収集されない遺骨になって、その地に打ち捨てられている…僕らはそんな存在です。

自立しましょう。「いつかなんとかしてくれる」と信じて待ってちゃダメです。「税金、払ってるんだから」も通用しません。追求しても官房長官のようにかわされるだけです。

棄民:戦争や災害などで困窮している人々を、国家が見捨てること。また、その人々。

憶えておきましょう。

これはどういうことか

作家であり詩人でもある高見順さん(1907年〜65年)は、1945(昭和20)年8月8日の日記に、新橋から田村町あたりの様子として「人の様子はいつもと少しも変わっていない。恐ろしい原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわからないというのに……人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。これはどういうことか」と書いていらっしゃいます。

自分は選挙にはいかない

ある人が以前「自分は選挙には行かない」と話していたのを突然思い出した。彼は「社会と自分との距離をどうとるかっていうことや」と言っていた。
政治や社会問題のことを「自分にはわからない」と言って、「それっぽいわかったような顔をして話している人」をあざ笑うような態度を取る人もいる。
考えたくないと思うことはたくさんあるし、考えたくないときは考えなくていいと思うけど、商売ができたり、整備された道路を歩けたりするのはこの「国」があるからで、それと距離なんて取れるわけがない、距離を取るとしたら、どの国の領土でもない場所で電気や水道を全部自分で整えて自給自足の生活をするしかないと思うんだけど、そういうことじゃないのか。

村上 慧 著 「家を せおって 歩いた」より

村上さんは武蔵美卒の美術家。この本は「移住を生活する」として発泡スチロールの家を背負って各地を移住したその生活から、2014年からのおよそ1年間を切り取った、村上さんの(雑感を交えた)日記です。僕にとっては今年前半で最も示唆的な一冊になりました。

きょうは、横浜市長選挙の投票日ということで冒頭の一節を引用させていただきました。