やさしい“ものづくり”

日本の「ものづくり」の強さは
たんに、その技術力の高さに拠るものではないのかもしれません。

こんなにも、素材を敬い、慈しんで「ものづくり」をする国民性は稀有なものだろうし、自分のつくりだした製品を使う名もないユーザーのことを思い、愛情を注いで「ものづくり」をする気持ちを持っている技能職がたくさんいらっしゃることも日本の「ものづくり」の特長でしょう。

近代以降、特に前の大戦に敗北してからは、合衆国の文化が怒濤のように流れ込んできて単純に「自己実現」やビジネスのために「ものづくり」する人がたくさん現れて「やさしい“ものづくり”」の伝統はどこかに押し流されたようでしたしマスコミはじめ、世論も、そうしたことを評価しなくなっていました。

そして、今も世論はその系譜にあり「やさしい“ものづくり”」が正当に評価されていない状況は続いています。

でも、その一方で、誰が教えたわけでもないのに少数ながら 若い人の中に「やさしい“ものづくり”」は復権しています。

もちろん少数派ではあっても、以前から「やさしい“ものづくり”」は継承されてきてはいました。でも「少数派」であるが故に、大多数に影響を与えることもできず、一時は絶滅の危機に瀕していました。しかしながら、鳥が運んだ種が何千キロも離れた島で発芽するように、現在の世論とは、ほとんど結びつかないところから「やさしい“ものづくり”」が復権しているように思います。

不思議だなーと思うのですが、そういう人たちが日本のあちこちの技能の現場にいらっしゃいます。
東京にも、地方の町でも、大勢いらっしゃるわけではありませんが、必ず誰かは真剣な眼差しで技能に向き合っていらっしゃるのです。

そんなことから、アメリカナイズした時代というのは「はしか」みたいなもんで、この国の自然治癒力自体は衰えていなかったということなのかなと思ったりします。

僕には理論的な解説はまだ不可能ですが、ただただ、この幸運にはひたすら感謝したいと思っています。

心から、そう思います。

お城


いつだったか、瀬戸内に行ったとき、帰りの新幹線の車窓から撮った写真…
中央、左奥に鎮座しているお城は、ご存知、国宝「姫路城」です。

僕は、この姫路にお住まいの、とある技能職のおじいちゃんの話しが、ずっと心に残っていて、今もときどき思い出しては、いい話しだなーと思ったり、不可思議な感じがしたり…

そんなふうに反芻しています。

姫路市には大きな空襲が2回ありました。
まず、昭和20年(1945年)6月22日、当時姫路市内にあった川西航空機の工場がターゲットにされたもの。ありがちな話しですが、工場だけではなく、付近の民家や道路、水道設備なども破壊され、死者341人、行方不明10人、重軽傷者350人、罹災者10220人。これだけでもたいへんな被害ですが、さらに、7月3日深夜から4日未明にかけて市街地全域が焼夷弾攻撃を受け、総戸数の40%が焼失。死者173人、行方不明4人、重軽傷160人、罹災者45182人という被害を受けます。当時の姫路市の人口は107643人だったそうですから、実に半数以上の方々が罹災されたことになりますし、生活者の視点からすると、半分というより、姫路の全部が焼け野原になってしまったような印象があったようです。

ところが、なぜか姫路城は焼けませんでした。
あえて外したのか、当たらなかったのか…いずれにせよ、あんなに大きな城が焼けなかったのです。

当時、陸軍の幼年学校に居たおじいちゃんは、敗戦後、この姫路に帰って来るのですが、焼け野原になってしまった故郷に愕然としながらも、お城が大丈夫だったことが、心の底から嬉しかったとおっしゃっていました。ちなみに、おじいちゃんの家は丸焼けです。でも、凛として聳える天守閣を見上げるたびに、まだ大丈夫だと元気が湧いてきたというのです。

僕は、その感覚が判らなかった…

幸い、ご家族はご無事だったようですが、それでも、おじいちゃんは全財産を失っているのです。

これが、お城がある街の人たちの感覚なのかと思いました。

それにしても、姫路城の何が、おじいちゃんを励ましたのでしょう。そうした存在のないヨコハマ育ちの僕は、さっぱりわからない部分があります。

でも、判らないながらも、そんな「心の柱」みたいなものを持っているおじいちゃんを羨ましく思う気持ちもあります。

…いや

羨ましく思う気持ちがずっと強いかな。

大人とは

「イキのいい奴」というドラマ。主演は小林薫さんと金山一彦さん、脚本は寺内小春さん。1987年の放送(NHK)ですから、もう30年も前の作品です。

519AXD6ZAYL昭和24年頃の東京・柳橋に辰巳鮨というお寿司屋さんがある。そこに、安男という、やたら民主主義だ、自由だを振りかざす10代の若者が、お父さんに連れてこられて、ほぼ無理矢理、弟子入りさせられる…
その反抗的な若者が、親方や近所のおじさん、おばさんたち(故・若山富三郎さん、そのおかみさんに松尾嘉代さんなど)に触れるうち、彼らの考え方をじょじょに理解し、共感し、人間を成長させていくという物語です。

このドラマ、見方によっては、戦後の考え方と、戦前の下町にあった道理とのせめぎ合いの物語でもあります。で、かつての下町にあったものの考え方、人間関係のあり方の方がやっぱり温ったかくていいやとなるいうのがこのドラマの筋立てです。一方、このドラマが放送された1987年当時は、まさにバブルへGOの時代。あの「深夜の六本木交差点でタクシー停めるために1万円札ピラピラ」な雰囲気が街を席巻しようとしていた時代。現実の世の中、流れは全く逆でした。

ドラマの中では、みな住居兼店舗に暮らしています。寿司屋の親方も弟子も同じ屋根の下に寝起きしています。朝早くから夜遅くまで働いて、生活ぶりは質素。ロマネコンティやマルゴーに散財することはありません。88年に放送された続編で、隣の仕立て屋のおじさんのところが立ち退きになりかけますが、寿司屋の親方は、自分の住居兼店舗を抵当に入れて借金をし、おじさんに土地を買えと勧めます。大金を使うとしても、こんな感じの使い方です。この時代、失業保険はありませんが、親方は、いつか弟子が独立するときのためにとコツコツ積み立てをしています。しかも、一人前が見えてくると、小さくまとまっちゃあいけないからと、ちょっと恨まれそうなことをしてでも、弟子を独立させようと背中を押し続けます。

みないっぱしの大人です。

どこかにこういう大人がいないかと、いつもそれを探しているようにも思います。

そして、ぢっと手を見ます。

大きいほど美味しい

suikaもう10年も前ほどになりますか。ある年の夏、やたらとデカい、そして瑞々しいスイカに当たりました。6L。直径=40cmくらいはあろうかというスイカ。それが芯から皮に至るまで変わらぬ美味しさを保ち、なるほど、これはウォーター・メロンだというくらいに水分、豊か。
何キロあったんだろう…奥さんとふたりで食べきるのに約1週間ほどもかかった…特に奥さんはスイカが大好物ですから「スイカ腹」になるくらいに食べるのですが、それでも1週間くらいかかった代物(でも、ちっとも飽きることはありませんでしたが)。酷暑の夏に、冷たいスイカは何よりの恵みでした。

写真は、そのスイカについていた詞書です。

「スイカは大きければ大きいほど美味しいと信じて作ってきました」

なんと潔い、益荒男ぶり…この「信じて」が、美味しさの源でしょう。採算性ではない芸術としてのスイカ…暑い中を収穫するだけで大変だったと思います。もちろん、育て上げるまでの端正…しかも農協的な指導に背中を向けたようなスイカ…

つくづく有難く思った夏でした。

文化は残る

国家とは無縁の風土としての「日本」が育んだ文化。これは、この国の風土と切り離すことができない。経済の有り様によって国内にスポンサーを失うことはあっても「文化」そのもの命脈が断たれることは稀であるといえます(ただし、長く続く戦乱はそれを断つこともあります)。

16世紀以降を大きな内乱もなく過ごしてきたわが国は、ロウカルチャー、つまり庶民的な生活文化に世界に冠たる「豊かさ」を持っています。

これがビジネスという規模で経済成長を支えるものになるとは思えませんが、庶民たる個々人の生活の糧になる可能性は大いにあります。

ヘア・デザイン、珈琲の焙煎、フランス菓子などなど、いわゆる「日本文化」として僕らがイメージする浮世絵や茶道や能楽、歌舞伎などより、舶来から日本化し海外からは色濃く「日本らしい美学」を投影するものとして評価されるものにこそ、庶民にとっては「活路」になるでしょう。

個々人として、何らかの芸を磨き、インターネットなども駆使して海外にも市場を拓く…

世界に打って出れるのは「ラーメン」だけではありません。もっと広範に未開拓の分野がたくさんあります。だから、どこの会社に希望を見出すのかではなく、自分の中にある「日本性」にこそ注目すべきなのです。

この方向に舟を出せば、必ず海路の日和があるはずです。

やさしい街の一部になりたい

たぶん一度は焦土と化すだろうヨコハマ都心。でも、静かに「始まり」を感じる街もあります。
ただ、リハビリ散歩で毎日のように6年間、横浜市内、東京23区あるいは三多摩あたりを隈なく歩いても、そういう可能性を「街という面」で感じるところは、そんなに多くはありません。さらに「仕掛けなく自然発生的な」ともなると、ごくごく稀で、片手でも余るといった具合です。

でもね。あることはある…ヨコハマにもある。

都市的な利便性に恵まれているのに、自然的な環境にも恵まれている。鳥類や動物たちも豊富で、猫町でもある。
小さくて真摯な教会がいくつかあって、鐘をつく寺がある。シュタイナー学校のような立派な学校がある。
真面目に技能に取り組む若者が複数いて、ビジネスではない、いいBarやcafeを切り盛りしている若者も多い。しかも、その数が増えている。
ナンで食べられる美味しいカレー屋さん、パン屋さんがあって、ラーメン屋さん、洋食、鰻屋さんがある。この分野においては老舗もある。
街かど本屋さん、古書店がある。魚屋さんか、八百屋さんで個人店がある。お米屋さんがある。

あるにはあるんですよ。
ぜひとも「枯れないように」したいんですが、恐らく「知られてない」からこそ乱されずに済んでいるところもあるんでしょう。難しいところです。

静かなままに盛り上げていく方法ってないのかな。
少なくとも、従来の「まちづくり」発想じゃないし、このままを愛でてくれる人にだけに、そっと発信していく感じでしょう。

やさしい街の一部になりたいな。

一方で胎動も始まっている

東急東横線の白楽駅西口を出ると、正面を横切る綱島街道(旧道)があって、ほぼ正面に、僕が高校生の頃は「白鳥座」という映画館だったところが、今はドトールと銀行になっています。
この綱島街道を西口を背に左手には六角橋商店街であり、神奈川大学の方向です。
六角橋商店街は、やはり「闇市」の血脈を受け継いで「吉祥寺のハモニカ横丁」的な色彩を持つ商店街です。往時の勢いはありませんが、空き店には若い人たちが起業していく…そして、みなさんが個性的で、家系のラーメンのように良くも悪くも「濃い感じ」。淡麗ではないが、たぶん常連になったら、たまらん「あたたかさ」を持ったお店が多いんじゃないでしょうか。都会にあっては、どこか土の香りを含んだ親しみやすさもあります。
一方、西口を背に右手に綱島街道を妙蓮寺方向に行くと「洗練」の方向にマス(大量生産・大量消費)を離れたお店が多くなっていきます。もちろん「街づくり協定」なんぞできっちり分けたわけじゃありませんから、六角橋商店街にも「洗練」の方向を目指していらっしゃるお店もありますが、妙蓮寺に向かって土臭さとファンキーさは希釈されて、いい頃の南青山あたりにあった雰囲気を醸し出しているお店が多くなります。僕は珈琲を焙煎するいい香りに誘われながら、Tweed Booksさんによって数冊購入、しばらく会話を楽しませていただいて、若い方が始められたcafeで珈琲を飲んだり飲まなかったり…

そして、妙蓮寺駅近くには、昔ながらの白い食パンが美味しいパン屋さんと、バゲットをはじめとしてハードものが抜群のパン屋さんがあり、本格の蕎麦屋さん、ありがたいことに「街の本屋さん」もあります。
妙蓮寺駅近くには古民家cafe的なお店も複数あるようです。もちろん、郊外なニュータウンな街にもこういう感じはあるんでしょうが、整備された四角いデカい街区とは異なり、ここは等身大、ソリッドとは無縁です。

さて、このたったの「一駅散歩」にも、街は個性を滲ませます。白楽駅西口を背に右に行くか、左に行くかで大違い…もちろん、大倉山駅周辺にも、反町駅周辺にも個性はあり、また、その個性も狭い範囲で猫の目のように変わるものです。

街の魅力、その原点はそこにあります。特に大都市はそうです。

これを「東横線沿線」とひとくくりに考えてしまうことの「もったいなさ」…でも、今だって、そのことに強い疑いを持っている人は少ないでしょう。

少数の若者たちが頑張っているうちに、見直しの機運が持ち上がればなぁと思います。

みなさんも、たまに…でいい。実際に脚を運んで「これは」と思うお店を応援してあげてください。そうすれば、案外、あなたが欲しかった「贅沢な時間」が見つかるかもしれません。

なぜって…僕らはもう、あらかじめ、そういう街を求めて始めている…そう思うからです。

21世紀のテーマ

「襟を正す」「いかがなものか」と戦争に突き進んでいった時代がありました。

ホロコーストも無差別爆撃も、秦の始皇帝の「長平の戦い」における大虐殺も、みな正義の美名のもとに行われたこと。人間の歴史は「正義」が必ずしも平和をもたらすものではないばかりか、しばしば惨たらしい災禍をもたらすテコになることをよく知っています。

「一種一様」なのは人間がつくった花壇の草花だけです。道端の草花は多様性がスタンダードです。
地球にとっては、ひどく当然な「多種多様」な「共生」が、人間には未完です。…できていない。排斥は得意ですが「多種多様な共生」は苦手なのです。

たぶん、本格的な21世紀の始まりは、この苦手を克服してからでしょう。
逆に言えば、それが21世紀のテーマです。