学校と社会

僕が受けてきた学校教育…幼稚園、小学校、中学校に高校。そこでは、僕=個人として、人や自然と共生していくための価値観とか方便とか…そういうことよりも、この国という社会への参加のノウハウ、規則を守ることを徹底して教え込んでいたように思います。

僕は朝礼のたびに「前に倣え」をし、運動会では行進の練習に多くの時間を費やしていました。

僕は「班」というユニットに組み込まれていました。ご承知のように「班」は軍隊由来の言葉です。連隊、大隊、中隊、小隊ときて、その下のさらに小さな単位が「班」です。

なぜ、学校に「班」という言葉が持ち込まれたのでしょう。僕は1961年生まれ。憲法9条がある後に、この国に生まれた世代です。
好意的に解釈すれば、工業生産でマニュアル・レーバーがスタンダードな社会なら「会社」の編成も「軍隊」由来のものですから、そういう社会で「生きやすいように」という「親心」だったのかもしれません。でも、前線において一糸乱れぬ統率を担保するため、徹底的に規則で個人から個人を奪い、個人を軍の部品にする…それが兵隊をつくるということですから「個人として人間関係を作り、チームを組んで生きていく」ための方便を教えるのではなく「組織に参加して、粗相のないように生きていく」ための教育だったことは事実でしょう。

つまり「私」を引っ込めて「みんな」になるための教育です。

でも、先進国中の先進国になったこの国は、工業生産の現場を「これからの国」に譲り、個人の個性から生み出されるアイディアやテクニックを主な収入源して生きていくようになります。もうすぐ「みんな」で呼吸を合わせて作業をするとか、遅刻者が出ることが非効率であるとか、そういう時代は終わります。

ただ、この国は第一次世界大戦が始まる前から「工業生産」で富んできました。もう100年以上。しかも世界に冠たる成功を収めた国です。だからこそ、なかなかその時代の常識を捨てることができません。インターネットがある時代ですから僕が子どもの頃と比較しても展開は高速です。

でも、変えられない。人間そんなもんです。

それ故、時代に置いていかれるのがスタンダード。制度も時代に置いていかれる。それが「フツウ」です。

一蓮托生でいくのか。孤立無縁の自助努力か…僕らに残された選択肢はそれしかありません。

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