楽しんで時代に適応していくこと

まだ、インターネットが苦手だとか。ツイッター、インスタグラムとかの、つまりSNSが嫌いっていう人はいるんですよね。さすがに若い人にはいないんでしょうけど、「俺には必要ない」って言い張ってた団塊の世代の人もいたなぁ。
でも、ガスとか水道に、好きも嫌いもないでしょ。もうインフラ化しちゃったんだから「断固、拒否」っていうのも難しいと思うんです。確かに薪でゴハン炊いたら美味しそうですけれど、それに固執したら都会の分譲や賃貸の住宅には暮らせませんもんね。

慣れるしかない。そういう流れにあるような気がします。

「一億総管理社会」も流れでしょう。これを小さい僕らが拒否することはできない。この中でうまく立ち回っていくしかないのだと思います。

わざわざやらなくていいことまで積極的に参加する必要はないと思います。でも、しなやかに対応すべきは対応すべきなんでしょう。「不慣れ」や「面倒」を理由にすべきではないとは思います(実際、面倒ですけどね)。
同じように、やがては「無人の街」にも慣れていかなければならないのでしょう。その中で寂しさに押しつぶされそうになっても、誰かが手を差し伸べてくれるわけではないですからね(お金を出せば話はまた別なんでしょうけれど)。そのあたりはセルフ・サービスでしょう。

いずれにせよ、1961年生まれの僕にしてみれば「意外」や「違和感」に満ちた未来が待ってるのでしょう。楽曲の購入に物理的な形が失われ、映画やドラマがスマホの中に入ってしまっても、それはそれ。淡々と「時代の流れ」と思って「慣れていく」しかないのだと思います。

「必須」なら楽しむこと。文句言ってても、虚しくても、時代は勝手に次のステージに向かいますからね。

でも、デジタル・ネイティブではないからといって(デジタル・ネイティブである)若い人を恐れる必要はなさそうです。

彼らは、機材の使用法には精通しているかも知れませんが、むしろ工業生産時代の教育の最末期に属していて、彼らの多くがステレオタイプな複写機。よって、彼らのSNSを見にいっても「楽しかった」「美味しかった」と「ピースする自分の顔写真」「友だちの顔」。知価(情報)生産で食っていくには程遠い感じです(しかも、そうしたことに無自覚です)。

(この点については、彼らが置かれている、この時代の経済状況にも拠るのかもしれません。「奨学金破産」が話題になる昨今ですが、そうでなくともバイトに明け暮れ、世の中に見聞を広めるほどのゆとりは持っていないのかもしれません)

それに驚くほど世界も狭く、内向きです。クラスメイトな常識が世界の常識(だから、そこからはみ出ると酸素がない宇宙空間に放り出された感じになってしまい必死でステレオタイプを演じているのかもしれませんね)。でも、世界が狭ければ自分に磨きがかからないのも事実でしょう。

いずれにしても、知価(情報)生産に置いて、若い世代にこそザクザクとライバルがいるという状況はなさそうです。逆に、彼らこそが大した社会経験も積めないうちに、無人化と労働市場の国際化の荒波に揉まれていくのかもしれません。

どこかに「これは」と思える「完成されたプロトタイプ」が転がっている時代ではありません。そのことが自覚できていれば、それだけで(おじさんでも)有利でしょう。

あとは楽しんで時代に適応していくこと。ストレスだけは大敵ですからね。

諦めてしまうか、自分で動き出すか

市井の隅々にまでマニュアル・レーバーは浸透しました。

僕が子どもの頃には「まさか、小さな商店街にまで」と思いましたが、実際には、場末の商店街にもコンビニがあり、牛丼チェーンやハンバーガー・ショップがあり、居酒屋もチェーン店だったりします。
1956(昭和31)年から1966(昭和41)年まで「あまから横丁」という商店街を舞台に、酒屋さんと、パン屋さんと、保険外交員さんを主人公に大ヒットしたドラマ「お笑い三人組」(NHK)がありましたが、今の商店街は、直営店にしろフランチャイズにしろ、店主さんの顔は見えず、スタッフさんも流動的。「お笑い三人組」のような番組が毎週放送可能になるほどのエピソードに恵まれる人的なつながりはなく「買い物ができる(飲食できる)という機能」だけがある空虚な現場です。

今年末、民放のテレビドラマから久しぶりに「逃げるは恥だが役に立つ」(TBS)という話題が生まれましたが、閉じた職場の数人の同僚、核家族、同級生の一人か二人…そんな閉域の少人数の中で展開される物語が大半でした。
物語の終盤、森山みくりさんは商店街のイベントを手伝い、タウン誌の記者さんになりますが、現況の商店街に活気にあふれた人間関係はありません。みくりさんのお友だちの八百屋さんにも、来客は「たま〜に」。エピソードに盛り込まれることはありませんでしたが「タウン誌」の方もたぶん「推して知るべし」な状況でしょう。

でも、こういう商店街を僕らは選びとってきたのです。

店主もスタッフさんやお客さんとのコミュニケーションを面倒臭がりました。お客さんも、お店との会話を面倒臭がりましたし、何時に行っても買い物ができるわがままの実現を望みました。

そこに、資本が「便利」と「楽チン」を提供し、その代わりに、その地域で稼いで地域に落ちたはずの「収益」を合法的に取り上げていきました。地域には人的なつながりが生まれにくくなっただけでなく、お金も搾取されてしまったので、あとに残るのはゴーストタウン化です。

さて

行政は、この仕組みには手をつけずに、いたずらにイベントを多発して商店街を盛り上げようとしますが、これは、まさに「焼け石に水」。でも、特に自治体としては「地域に落ちたはずの『収益』を取り上げていき」の部分は触れられないのでしょう。そして、触れないで「手は打っている」を装うのが、今日的な行政施策かな。

ただ、そういう問題点を指摘しても、おいそれと行政の姿勢が変わることはないのでしょう。何も、この感じは商店街振興に限ったことではありません。

あとは諦めてしまうか、自分で動き出すかのどちらかでしょう。文句言ってる時間はありません。

生活水準の落差

そこそこの分譲マンション、あるいは郊外の一戸建て住宅を所有する、それなりの企業の管理職。奥様は専業主婦に近い標準世帯…などという方。
そういう方こそ、マニュアル・レーバーが過去のものになり、街角にまで「無人化」が汎用されるようになると、生活水準の落差が激しいものになるかもしれません。

…となると、同い所得水準(年齢)の方で粒ぞろいな感じになるはずの分譲マンション群な都心、郊外の住宅地の荒廃も進むはずです。

彼らは地域にとっては優良な消費者であり、納税者ですからね。

「トランプ期待バブル」の弾け方にも拠りますが、順当にいっても「オリンピック・バブル」が弾けた頃には明確になっていくでしょう。会社以外の評価軸(収入面も含め)をお持ちの方は免れるのかもしれませんが、たいていの方は「会社一筋」だったはず。それを4〜5年でアジャストするのは、ほぼ不可能でしょう。しかもオリンピックまでは「バブルっぽい」ムードになっちゃうかもしれなわけです。

大企業が集まる(首都圏はじめ)大都市圏は、ちょっと大変なことになると思っていた方がいいでしょう。

めでたい気分になれない所以

スマホゲームと友だちのライン、食生活の中心はコンビニで、ときどきはランドやUSJなどに出かけたり、ハロウィンの街に繰り出してみたり…情報源は、案外「テレビ」だったりするのかな。…そういうライフデザインの人がいる。

仕事はもちろんマニュアル・レーバー。生まれた「家」も、経済的には豊かじゃない。フツウといえばフツウだけれど、自分より「下」の家などそんなにみたこともなく、知価(情報)生産に移行しようにも、育った家庭に豊かな生活文化はなかったし、大学まで行けたとしても、それでギリギリなところ。知価(情報)生産には「高学歴プラスα」が肝心なのにね。

(たぶん「新・中間層」の家庭には「芸は身を助ける」の技能も継承されていなかったはず)

しかも、工業生産時代を経て、大多数の国民は「新・中間層」。自営としてのマネジメント力はなく、時代の荒波を乗り切るには不器用すぎるキャリアしかありません。

こういう人たちに「無人化」という大波が襲いかかろうとしているわけです。

この国でも「暴動」が起こるのかな。それとも別の形になって現れるのかな。

僕には全く判りません。予想もつかない。

お正月だっていうのに、あまりめでたい気分になれない所以です。

絵空事と笑ってはいられない感じ

いくつかのSF小説に出てくる国家や都市…

大多数の市民、国民は公的な福祉で生活している。つまり「納税」は「企業」の役目で、なぜそうしているかといわれると「暴動」が起きるような状況は信用低下につながり、株価に影響するから。別に企業市民としての役割を果たしているわけではない。実際「暴動」の鎮圧は面倒ごとであるし、彼らがいるから、次なる金融物語のシナリオが書ける…
お役人はかつてのエリートではなく、「バットマン・ビギンズ」のゴッサム・シティのように、賄賂で生計を立てる警官が闊歩し、お役所の上層部までもが明らかにマフィアとの癒着で成り立っているという…あんな感じ。

つまり、内実のある「福祉」ではなく、あくまでも特権階級や資本家・企業家のご都合主義によるもの。

でも、現実味を帯びてきているな。

ジョージ・オーウェルの「1984年」を初めて読んだ時、まさか自分が生きてるうちに、あの「監視社会」が「技術的には可能」なんてことが現実になるとは想像もつきませんでしたが、まさに「技術的には可能」だし、部分的にはそちらの方向に進んでいっているようにも思えます。

やっぱり「新・中間層」が消えていくところで最後のシグナル、っていうところかな。

少なくとも、絵空事と笑ってはいられない感じがしてきました。

勝ち馬に乗る

仮に「いじめ」が横行する職場があるとすれば、その職場では過酷な椅子取りゲームが始まっていて、就業者は自らの将来に言い知れぬ不安感を抱えているでしょう。その歪んだ発露が「いじめ」です。「世間」にも疑心暗鬼になっている。

学校も同様かな。その場の規則に従っていても将来が見出せない。でも、すでに時代遅れになっているからこそ「効かない」規則に縛られる。規則はさらに過酷なものになっていく…みながストレスフル。

これ「リトマス試験紙」かもしれない。

こうなってしまったら、先がないことのサインなのかもしれません。

多かれ少なかれ「どこだってそうさ」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、85%が「フツウ(中流)」から脱落するとまで言われているわけですから「どこだってそうさ」でツジツマはあっているのかもしれません。

たぶん、どこかにユートピアを探しに出るよりも、孤独に過ごして、自分の深部に聞いてみた方がいいのかもしれません。

既製品を買ってくれば済むとか、勝ち馬に乗るということが可能になるような時代ではなさそうです。

一国二制度

工業生産だけでなく農業生産だって、僕らは「みんなで」を基軸に、その方法を洗練することで生産活動を発展させてきました。そして生産されるものを「みんなで」分けるなり、大量生産・大量生産の時代には、生産されたものを「みんなで」買って企業を存続させもしてきました。

でも、海外への投資や特許・著作権収入は「みんなで」に拠る生産活動ではなく、あくまでも個人プレーです。そして従事できる人も「少数」。農耕時代から考えれば、大昔から取り組んできた「みんなで」の常識が崩れていくわけです。一見「みんなで」の消費が効かなくなれば投資も特許もないだろうと思えなくもないのですが、金融経済は「描いたストーリー」にお金をつけていくようなところがありますから、必ずしも実態に即したものではありません。「みんなで」の消費が効かなくなっても、誰かはそれなりの筋書きを描き、その筋書きに相場師は値段をつけていく。古くはオランダのチューリップ・バブル(17世紀)、1980年代末の我が国のバブル経済、サブプライム・ローン、リーマン・ショック、全てが実態に即していれば「起こっていなかった」経済的な災禍です。

これからは「公共」が主役になっていくのかもしれませんね。ベイシック・インカムしかり、多くの人が、いわゆる「公共的な福祉」によって生き延びるようになるのかもしれません。少なくとも、大多数の人が「次の時代」に適した働き方を見出すことができない(工業生産時代から知価(情報)生産時代への)移行期においてはそうなるのでしょう。数百年以上続けてきた「みんなで」の時代は、そう簡単に終わってはくれないはずです。

いわゆる田中派・竹下派的な時代に補助金漬けになった農業者、中小の商工業者については「看板は民間人でも、その実態は公務員ではないか」という見方がありますが、その見方が的を射ているとすれば「食えなくなる」を「公費で養う」は、すでに実績があるということができるのかもしれません。

戦後は一億総中流だった、この国が、ツートーンに分かたれていくんでしょう。一国二制度と言い換えた方がいいのかな。

いずれにせよ、配給制度が復活するのかな。のんびり生きられるのなら「それもありかな」と思うんですが
そうは問屋が卸してくれないんじゃないかな…代わりに「兵役」とかね。

お役所の「僕らのために」はお為ごかしなことが多いですからね。かつての移民政策だって「話半分」どころじゃなかったでしょ。

次の時代は平等に

以前に、このブログでも「航空母艦の着艦訓練」、人間よりも「AIによる無人操縦」の方が圧倒的に成績がいい。理由は「AIはビビらないから」だそうで、同じ無人機でも、人間が遠隔操作をしているものになると「圧倒的に」というほどの差はつかないのだそうです。

一方

「確かな根拠もなく事実を推しはかること/憶測/あてずっぽう」を「当て推量」と言いますが、始末が悪いことに、当人としては正確な予断(=結果を前もって判断すること/予測)だと思いつつ、「当て推量」だということがしばしばあるわけです。これは経験を積んだ専門家にしてもそうで、ベテランの天気予報士よりもAIの方が的中確率が高いとか、そういうことに現れるのだそうです。しかも、彼らは将棋でいえば2万局の対局経験にも「疲れない」わけですし、臨床に多忙を極めていても先端の医学的な研究データを掌握し、すぐさま次の診断に活かせるという能力も持ち合わせています。

ある薬剤師の方が「AIが出てきたら僕らイチコロですよ」とおっしゃっていましたが、オックスフォードのオズボーン准教授が挙げた「あと10年で消える職種」には「銀行の融資担当者やアナリスト」など、一見「AIの台頭があっても安泰」と思えるような職種も数多く含まれており、実際、公認会計士や税理士、司法書士、社会保険労務士など、法律的な知識の有無(その量)を寄る辺とする部分については現時点でもAI化が可能だといわれています。

ビビらず、当て推量もしないAIは、それだけで、僕らより「仕事ができる」なのかもしれません。

それなのに「士業」を将来に繋げようという人は少なくなく、例えば公認会計士は2000年からの14年間で資格保有者は2倍以上になり、社会保険労務士は2005年からの10年間で1.5倍近くに資格保有者の数を増やしています。
しかも、歯科医院、美容院、接骨院などは、いずれも、すでにコンビ大手三社の店舗数の合計よりも多く、明らかな供給過剰。つまり、公的な総量規制もないままに、人々の就業を奪いかねないAIの汎用化は着々と実行に移されていっているというわけです。

こうした状況があって、僕らは将来を「無風」に過ごせるでしょうか。インフレになれば貯金は勝手に目減りしていきます。

トランプ次期大統領は「労働市場の国際化」に歯止めをかけるイメージで当選したようにも思えますが、AIとロボットの汎用化を止めることはできるのでしょうか。その部分が阻めたとして、それで産業の国際競争力を保つことができるとも思えません。

僕らは巻き込まれるのでしょう。腹を立てても翻弄されるその力にはかないません。

想像を絶することに対策を練るのは、まさに空前絶後ですが、僕らは、ここを超えていくしかないのでしょう。

僕には、関東大震災や昭和恐慌、大空襲や敗戦を乗り越えてきた生き証人の記憶がありますから、捨て鉢にならずにすみますが、戦後の大都市で核家族となったご家庭に育った方は、あまりに経験知がなくて大変でしょう。

でも、次の時代は平等にやってきます。