資 格

国家というか、正確には政府。そうしたものへの信頼がゆらげば、国家資格の信頼もゆらぐというものです。
歯医者さんだというだけでは喰える時代ではないといわれて久しいのがいい証拠でしょう。

国家資格より「腕」…

そして、今や「歯医者さん コンビニより多い」というのが現状。厚労省の調べで、歯医者さんの年間廃業数は全国で1600院程度。毎日5院ずつほどが廃業している計算です(2016年)。

歯医者さん、今は「粗製乱造」気味だったかなともいわれています。

もともと「業務独占資格(その資格を持っていないと、その業務に就けないもの)」「設置資格(その事業を行う際に、その企業や事業所に特定の資格保持者を必ず置かなければならない)」にも、例えば、法曹の司法書士、行政書士などのように、なぜ別々の資格になったのかの必然性があいまいで、資格を与えるお役所側の事情じゃないかと言われているものが少なくありません(分けといた方が、たくさんの「お役人が喰える」からという…)。

「法律上、資格がなくても業務を行うことができるが」って「但し書き」って何?って思いますが、名称だけの独占にとどまる「名称独占資格」という資格もあります。

(名称独占資格=介護福祉士、社会福祉士、精神保健福祉士、保健師、製菓衛生師、調理師、栄養士、管理栄養士、技術士、技能士、中小企業診断士、マンション管理士、土地区画整理士…などなど)

各省庁ごとに、なんだかわからない外郭団体をつくって果たして実効性があるんだかないんだか判らないような資格を、しかも近接して、乱発する…
あんまり専門的な判断力がなくても「資格」を頼りに依頼すれば安心というのが、利用者側から見た「資格」の最大のメリットだったはずなんですが、もともと、それは「薮の中」にあったという…

まぁ、こういう面でも、自分の判断力だけが頼りなのでしょう。

リアルに歯を治すのが上手くて、費用的にもリーズナブルで 説明も上手いといった、そういう歯医者の先生を自分で探す…難しそうですが、そんな感じが今様なのかな。だったら資格を発行している役所や団体は何をしているの…という気もしますが。

(本格的に治療を要するようになっちゃう前に、歯垢除去なんかで「お試し」しつつ「探しておく」も手なんでしょう。ネットの情報はアテにならないのが世の常ですからね)

情報収集力と判断力

あるとき、奥さんと「うどん」を食べに銀座に出かけました。

行きの電車で、正面に「婚礼お呼ばれ」だったと思われる女性が引き出物と思われる袋を抱えながら腰掛けていて「宅地建物取引主任者」の資格取得のためのテキストを広げていらっしゃった…

つまり、頑張っていらっしゃったわけです。

で、「うどん」を食べた後、腹ごなしに勝鬨橋まで歩いて小休止と、渡ったところにあるデニーズでノンアルコール・ビールを飲む…そしたら、隣の席の女性が一生懸命に勉強されている。

アロマ・セラピストとか なんとか。

そのころ、僕は今、大学院生でしたが、今や大学院生も26万人。博士課程を修了する人だけで年間1万6千人と言われています。

(「末は博士か大臣か」の時代は遠い昔です)

たぶん、修士とったり、博士になれたりということが沽券になる時代は終わってるんでしょう。不動産会社に勤めていて、それで「宅地建物取引主任者」の資格を持ってて(よくても)月額1万円か2万円の手当が増えるか増えないかだそうですが今や、修士・博士もそんなもんです。弁護士さんだって、余っちゃってるから司法試験の合格者を少なくしていこうって検討が始まっています。

何しろ、今は情報の拡散が速いですからね。1人の成功事例に10万人が群がるまでに 大した時間はかかりません。

しかし… それにしても

学校側は、数言うことに言及しません。AViVAな資格講座のCMだけじゃなく、大手の新聞だって、大学だけじゃなく、社会人大学院などを奨励するような感じですが、それ「沽券じゃないよ」という警鐘を鳴らすことには消極的です。

やっぱり「食い扶持」に繋がっているからなんでしょう。

しょうがないから、自分で取材して自分で判断。 進学や資格取得の勉強を始める前に、情報収集力と判断力…なんだか本末転倒な気もしますが、こういう時代ですから仕方ありません。

ステゴサウルス

今の学説ではどうなっているのか判りませんが、僕が子どもの頃、ステゴサウルスは、身体に対して脳が小さく未発達で、尻尾の方が捕食者に食われ始めていても、まだ痛みも、つまり危機感も認識できなかったのでは といわれていました(どなたかの仮説でしょうけれど)。

前の大戦、その敗戦前夜の市井を描写したドキュメントに遭遇するたびに、僕は、このステゴサウルスの話しを思いだします。

1945年の4月20日(つまり、すでに各都市で空襲が激化し、東京の下町は一晩で10万人が亡くなったという大空襲に襲われた後)。当時のジャーナリストで批評家の清沢 洌は日記にこう書き記しています。

沖縄戦が景気がいいというので各方面楽観説続出。株もグッと高い。沖縄の敵が無条件降伏をしたという説を僕も聞き…中には米国が講和を申し込んだというものがある。民衆がいかに無知であるかが分かる。新聞を鵜呑みにしている証拠だ。

青木宏一郎 著「軍国昭和 東京庶民の楽しみ」より

ご承知の通り、実際の沖縄では3月中に激しい空爆と艦砲射撃が行われ、4月に上陸戦が開始されると、5月中旬には、あの「シュガーローフ」の激戦があり、那覇市内は完全に焦土と化し、5月末には日本軍は首里撤退。戦場に取り残された市民は、さらに集団自決などの悲劇に巻き込まれていきます(脚をやられて動けなくなって、目の前で亡くなった肉親が腐っていく様を見ているしかなかったという方のお話しをうかがったことがあります)。
つまり、実際には、沖縄戦に一時的にでも「景気がいい」という状況はありませんでした。6月末、沖縄戦での組織的な抵抗は終了しますが、その6月17日、浅草を訪れた作家の高見順は、こう書いています。

観音様は、仮普請の最中だった。この辺一帯、焼野原のままで、人は住んでいないのに、参拝人が出て来ているのは、異様であった…六区へ行ったのだが、ここでまた大変な人出に驚いた。

青木宏一郎 著「軍国昭和 東京庶民の楽しみ」より

いいとか、悪いとかではなく、近所で(たった一晩で)10万人もの人が亡くなり、同じ国の中で壮絶な市街戦が繰り返されていても、あの頃の、これが「市井の雰囲気」だったんだということは、頭の片隅に置いておいた方がいいような気がします。
みんなもっともらしいことをいい、したり顔で「沖縄の敵が無条件降伏をしたという説を僕も聞き…中には米国が講和を申し込んだ」などという根も葉もない話しの拡散装置になっていた…

今が、そうではないという保障はどこにもありません。昨今のSNSに起こる「炎上」などの出来事は、その逆を彷彿とさせますし…

さて

何を信じていけばいいのか…というより、人の話しを確認もせず信じてしまう自分の体質をこそアジャストすべきなんでしょう。周囲の雰囲気に流されて安心はしない方がいい。多数決は、そういう意見を持っている人が量的に「多かった」ということは描写できても、その意見が正しいかどうかを査証するシステムにはなっていないわけですから。

そんなに時間はありません

週刊新潮の2018年2月1日号に見つけたコラムです。
ああ、知価(情報)生産時代の実際って、こんななんだろうなと思いました。とても的確なスケッチだと思います。藤原正彦さんの筆によるものです。全文を引用させていただきます。

「その人がハッピならそのままにしておくというのがイギリス人の基本的考え方である。他人の行動にめったに干渉しない。そんな国民性のせいかイギリスには変わり者が多い。「ハムレット」の中にも「イギリス人は気違いばかり」という墓掘りの言葉があるくらいだ。周囲の目を気にせずしたいことをする、という人は確かに多い。たとえば冒険家が多い。太平洋探検のクック、アフリカ探検のリビングストン、南極探検のスコット、「日本奥地紀行」のイザベラ・バード女史、エベレスト初登頂の英国隊……。冒険小説も、「ガリヴァー旅行記」「宝島」など枚挙にいとまがない。学問における冒険とは独創的研究だが、力学のニュートン、電磁気学のマクスウェル、蒸気機関のワット、遺伝学のダーウィン、近代経済学を編み出したアダム・スミス、それに大修正を加えたケインズと多士済々だ。
英国人の友人にも変わり者が少なからずいる。Cはケンプリッジの天才的数学者だったが、その後数学者をあっさりやめ、ITの仕事をしたり、囲碁三段の腕前を生かし入門書を著したり、ウィキペディアに大学・大学院生レベルの数学解説を書いたり、と高等遊民になっている。時折そういった解説を読むが、Cの書いたものには一流の冴えがあるのですぐにそれと分る。彼のケンプリッジでの教え子(数学と碁)に、世界一のプロ棋士を破った囲碁ソフト「アルファ碁」を考案したデミス・ハサビスがいる。Cに頼まれ大学生のハサビスにお茶大の研究室で会ったことがある。「プロ棋士に勝つ囲碁ソフトを作るのが夢」と言うから、「今までのものの改良では不可能だ。脳科学をよく勉強した方がよい」といい加減なことを言っておいた。ところが彼は大学を出て数年後、本当に大学院に入り脳科学を専攻し、卒業して数年後に「アルファ碁」を作ってしまった。
Cの夫人は全英で女性トップ三百に入る実業家だが、ケンプリッジで研究していた愚息をプロレスに連れ出すほどの格闘技好きだ。とりわけ大相撲ファンでしばしば日本を訪れる。彼女はこの三月に会社からあっさり身を引き、映画製作の暮を始めるという。充分な資産を作ったらいつまでもあくせく働かず、田園に移住し庭仕事や読書や芸術など、好きな活動に精を出しながら人生を楽しむ、というのが英国紳士階級の理想なのだ。赤ん坊の頃から知っている息子は高校生の夏休みに拙宅で一月を過ごした。オックスフォード大学の数学科受験を秋に控えながら一切の勉強をせず、プックオフでマンガ本を連日買い漁った。値段がロンドンの五分の一とか言っていた。心配して、「少し数学を見てやろうか」と言ったら、「I am off now (僕は今休暇中)」­とはねつけた。マンガを八畳間に並べたら端から端まで届いたから二百冊はあったろう。ただ、子供は子供で、帰国時に­郵送料が五万円もかかると知り青ざめていた。入試には合格した。優秀な成績で­卒業した後、あっさり数学を捨てロンドン大学で法律を専攻、弁護士を経て裁判官としてマンチェスターで活躍していた。ところが一昨年の手紙に、再びあっさり­職を辞し、男性と結婚しアメリカのシカゴでチョコレート職人になったとあった。仰天動転した私が、昨年我が家を訪れた母親にショックだったかと尋ねると、「少し驚いた」と言ってからショコラティエとしての活躍ぷりをうれしそうに語った。娘はケンブリッジで生命科学の修士を取りながらこれまたあっさり学問を捨て、京都で日本語とキックポクシングを勉強し、今は旅行会社で働いている。Cの家族の奔放さにはいつも目を白黒さ­せられる。と同時に人生を何度も生きているような羨ましさも感ずる。私などは、かしずこうともしない女房に三下り半もi突きつけられぬまま、四十年近くしがみついている。いじましい、いたわしい。

残念ながら「ジェンダー」など、ようようにバリアがフリーになっていかない分野もありますが、急速に「フリー」を実現している分野もあります。「あっさり数学を捨てロンドン大学で法律を専攻」とか、「生命科学の修士を取りながらこれまたあっさり学問を捨て、京都で日本語とキックポクシングを勉強し、今は旅行会社で働いている。」とか。知価(情報)生産においては、これまでに考えられないほどの適材適所が実現しようとしていて、それだけに、また生産される知価(情報)もより良質なものになろうとしています。

しかし、高次な教育を受けることができない、つまり、そうした資金力を持たない人々は、以前にも増して頑強なバリアに閉じ込められるようになって、ますます出口を見失ないつつもあります。生産される知価(情報)がより良質なものになっていけば、なおさら、追いついていくのは難しくなるでしょう。

その状況に、マニュアル・レーバーがない。そのあたりはAIが代行してしまいます。こちらも、かなりの高次になる業務に関しても代行が可能。そして、彼らは「電気」しか食わず年中無休で24時間、働きます。

藤原さんが紹介されているように、UKあたりでは知価(情報)生産の現場のあり方が実線で描かれようとしていて、邦人と異邦人がマニュアル・レーバーを奪い合う状況も恒常化しようとしている…
この流れが日本にやってくるのも間もなくのことでしょう。

しかも産業革命がそうだったように、後から、その洗礼を受ける国ほど、急ピッチで物事が進む。日本の場合は、知価(情報)生産な現場が確立されるのとAI化が同時進行でしょう。それに経済的な苦境が重なれば、企業を守るために、AI化はさらに急ピッチです。

(裁量労働制のゴリ押しだって、企業を守るためでしょう)

とにかく、そんなに時間はありません。

多数決

土建な工事、農作業までもがAIとロボット。軍事的な行動も、現場はロボットやドローン、つまり、兵士いらずな時代になると、集団生産な時代は完全に終わりになっていくのでしょう。

(シンクロする多数が生産の主体である時代は終わっていくわけです)

そうなると「質(しつ)」を問わない量的な「多数」に軍配をあげるような民主主義も大きく変化する…確かにヒトラーのような存在を誕生させるのが「量的な多数に軍配をあげるような民主主義」ともいえるし、トランプさんのような存在が、国内外に傷跡を残して「次」の時代へと導引していくのだろうと思います。

感情的で社会性のない大人たちはたくさんいます。それは工場労働などの集団生産の現場でシステムの部品になれれば、それ以外のことは知ったこっちゃないという「公」による教育のあり方にも大きな問題があったのでしょう(社会への適応力なく、よくまぁ、これでやってこれたなと思うお父さんたちがたくさんいます。故に、お父さんたちは家庭でも社会でも孤立的です)。

あの頃「武士」というものが階層ごと(短時間のうちに)滅んで、西南戦争を含むいくつかの「武士による反乱」が起こりました。しかし、戦闘のプロであったはずの彼らは、最新の武器で武装した素人(徴兵による)にあっけなく鎮圧されていきます。

これから同様のことが起こるのかもしれませんが、労働の質、生産性においてもAIにはかなわない。時代というのは非情なものです。

AIが主体の時代になれば、ストライキやサボタージュも効きません。暴動の鎮圧に出てくるのも生身の人間では無くなっていくのでしょう。ただ、安倍さんや麻生さん、トランプさんみたいな政治家も「多数決」に値打ちがなくなれば必要とされなくなるのかな。今も「お守役」みたいな人は苦労しているでしょうからね。

市井では「お金」の意味が変わり、多数決な民主主義のあり方、つまり、政治のあり方も変わっていく。「多数」に値打ちがなくなれば「お役所」のあり方だって変わっていくでしょう。
前の大戦の時は、戦争に負けても産業の形は集団生産を主体に継続していきましたが、今度は、そうしたところからして「大きな断層」…生半ではありません。

「マス」な集団生産な時代が終われば優秀な複写機なら食っていける時代も終わります。つまり「これまで」の経験が通用しないばかりか、そこから類推することもかなわなくなります。
確かに「あしたはあしたの風が吹く」なわけですが、あしたの風はとんでもない暴風である確率が高い…事実、1945(昭和20)年にはそういうことが起こったわけです。

誰だって、簡単に回答できないことに悩むのは気重ですが、干殺しに合うような事態だけは避けておきたいものです。
人間、とんでもなく醜いことをしてまで生き延びてしまうのが「性(さが)」なようですから(そうなると辛いですからね)今のうちに悩めるだけ悩んでおきましょう。

三色

次の時代になっていると社会が三色になってるんでしょうね。

ひとつは、エスタブリッシュな、絶対的なお金持ちたちの社会です。
全人口に対して、ほんの数パーセントいるかいないか。恐慌にいきあたって財産半減でもビクともしないお金持ちです。

次に彼らのための食品や生活道具、服飾などをつくりだす腕を持つ生産者や技能職。それに彼らの資産を運用のネタになる科学技術やアート、デザインに腕をふるったり、専門的なアイディアを供給するリチャード・フロリダ曰くのクリエイティブ・クラス。そして、その技能職やクリエイティブ・クラスの人々のための食品や生活用品を供給する生産者や工房な人々。この分野は世襲じゃないだけに勃興が効きそうですが、エスタブリッシュやクリエイティブな人たちに愛されるだけの「質(しつ)」をつくり出すには、つくる人にそれなりの生活文化を持ってることが要求されるものです。そうした生活文化を当代に実現するためには、そこに至る数代の努力が必要で、現実的には「天才の出現」以外、勃興は難しいというのが現実でしょう。

故に、このあたりの人々も人口全体の10パーセント程度で、そうそうは増えていかないのかなと思います。

(僕は、擬えれば、高校の野球部全体の中で、甲子園の決勝戦に残る高校くらいな感じがエスタブリッシュで、技能職やクリエイティブ・クラスの人々がベスト8か16か…っていう感じにイメージしています)

そして

80%を超える「ふつう」な人々はベーシック・インカムを主な収入源として暮らし、住居は自らがサンプルになることを前提に製薬会社など大手企業が無償提供するものに暮らす人も少なくないのでしょう。WiFiやスマホなども同様に無料。食料や菓子、酒類などは政府に拠る「配給」かな。教育や医療も、それなりに「公」が用意するのだと思います。

もちろん、100%の労働が無くなってしまうわけではないでしょうが、お金がなくても暮らしていける社会でお金儲けをしても仕方がないので、お金を稼ぐための労働というより、労働は「人助け」的なものになるでしょう。

ただ、徴兵付きかもしれません。もちろん、空爆などの対象にもなる…
今もそうですが、世の中「数でしかない人」には酷いものです。

産業革命の頃なら「数」にも値打ちがあって、故に労働運動が力を持ったわけですが、そのあたりはAIが電気代だけの無償労働で年中無休の24時間営業です。

エスタブリッシュな人たちの権益争いのための「人柱」になる…
それだけが「生かされている」意味になったりするのかもしれない。

労働から解放されても、バラ色の未来とはいかないようだし、
封建時代以上に「階級」は、もっとフィックスされちゃったものになっているのかもしれません。

修羅場

なんの予告もなく、ある日、お役所が機能を停止する。仕事も無くなる。貯金はパァ…というのが、前の敗戦です。戦争に負けたっていうより、市井の体感としては、そんなところだったと思います。
村方では男たちの多くが戦地から帰還せず、農家は働き手を失って農業の継続が難しくなった…林業でも漁業でも同様の状態があったようです。

昭和恐慌を政府は軍需産業と大陸侵攻で乗り切ろうとしました。そのため、当時のこの国の「ものづくり」は、兵器だけではなく、兵士が使う弁当箱や軍装品、彼らが飲む酒やタバコなどに至るまで「軍需」になり、街場の経済も「軍需」を中心に回っていました。その上で、大陸に侵攻して権益を奪い、こちらで余剰となっている国民を移民させる。でも、これでは「支払わせた税金を還流させている」と「他国の権益を奪ってくる」ですから、本格的な解決策になっているわけではありません。そもそも日露戦争などのために外国から借りた借金も、この苦境の原因でしたから「軍需」でさえも悪あがきというところもありました。

僕には、次のオリンピックも含めて公共事業な「土建」は、当時の「軍需」に似ていると思います。政府が借金で首が回らなくなっている状況も似ているし、徴兵ではなく少子高齢化が原因だとしても「地方」は、やはり瀕死の状況にあります(地方に行けば行くほど「公立」の建物ばかりが立派ですが、その財源は税金です)。あらかじめ将来の空きビルを造っているような都市の再開発、未だに癒すことのできないバブルの傷跡も、大都市の都心にさえ空洞を生んでいく点で、あの頃の都市が空襲にやられたのと似ているでしょう。これからは郊外の住宅地も空洞化していきます。

あの頃と違って、わが国は、外国にたくさんのお金を貸しています。AIとベーシックインカムが、光明になるのかもしれません。でも「これまで」と「これから」は、あの頃「戦時体制」から「戦後」へと変化した以上に大きな断層に隔てられることになるでしょう。ベーシックインカムとは、国民の大半に生活保護が必要だということでもあります。

あの頃の日本は10年を経ずして新しい時代に乗り換えてゆきます。でも、その「10年足らず」に「死ぬかと思った」というのが、ひいばあちゃんの感想です。70年ほどをひとつの体制のなかに、ほぼほぼ無風に過ごしてきた「戦争を知らない子どもたち」である僕らは、のんびりと構えたお坊ちゃんと深窓の令嬢。「要求」はできても「創意工夫」は苦手です。

たぶん、悲惨なことになります。

たいていが税金と借金で食っているようになれば「敗戦」も間近です。自分の身を食べていきているわけですから、致死量に至れば「敗戦」です。

戦争がなくとも「敗戦」はあります。そして、敗戦になれば、あの頃のように弱肉強食の修羅場です。

自律的な生活力

1945(昭和20)年8月15日の正午、外出先で玉音放送を聞いた幣原喜重郎は、電車に乗って帰途に就く。
車内で30代の男が叫んだ。「一体君は、こうまで、日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。……おれたちは知らん間に戦争に引入れられて、知らん間に降参する。怪しからんのはわれわれを騙し討ちにした当局の連中だ」。男は泣き出す。乗客も「そうだそうだ」と騒ぐ。
幣原は心を打たれる。「彼らのいうことはもっとも至極だと思った」。幣原は敗戦の日の「非常な感激の場面」を心に刻んだ。

井上寿一 著 「戦争調査会 幻の政府文書を読み解く」より

敗戦後、(実質的に)初の宰相となった人は「彼らのいうことはもっとも至極だと思った」と仰ったようですが、僕はそうは思いません。もちろん今とは比較にならないほどに開示された情報も少なく、(市井においては)「こうまで、日本が追い詰められていたのを知っていたのか」を充分に理解できるほどの教育の機会も与えられてはいなかったのでしょう。でも、市井にだって、早くから「敗戦」を予感して準備している人もいました。うちのひいばあちゃんもそうですが、彼女は読み書きができませんでした。

僕らの場合、現場に威張っている大人はいませんでした。みんな大人は肩身が狭そう。戦争に負けたショックが残ってますからね。

この一節は、秋山ちえ子さんと永六輔さんの対談本「ラジオを語ろう」(岩波ブックレットNo.550)から、永さんの発言です。
ここで言われている「大人」には、同時に「男性」という意味も含まれていますが、こうして大人の男たちが押し黙ったために、戦後のラジオは女性と若者(永さんも当時の若者)で始まったと、永さんは仰っています。
「みんな大人は肩身が狭そう」は、「敗戦」について、多くの男たちに加害者感みたいなものがあったんでしょうね、思い当たる節があったんだと思います。

あの頃に例えれば、今、この国は「敗戦」に向かっていっているのだと思います。
今を、あの頃と同様に過ごして、そのときを迎えた後に「おれたちは知らん間に戦争に引入れられて、知らん間に降参する。」と叫ぶのか。肩身の狭そうな大人になっているのか…

いずれにせよ。「今」の過ごし方でしょう。
罪を問うことはできてもお金は帰ってきませんし、就職の面倒もみてはくれない…

「敗戦」を予測し、どう準備しておくか。

あの頃と同じように、「従う」ことで無難に過ごしてきたら、「あしたから」自分たちで生きてゆけとセルフ・サービスが求められる…

(お役人にとって「敗戦」は、都合のよい理由でもあったでしょう)

だから、だから、自律的な生活力を。