やさしい“ものづくり”

日本の「ものづくり」の強さは
たんに、その技術力の高さに拠るものではないのかもしれません。

こんなにも、素材を敬い、慈しんで「ものづくり」をする国民性は稀有なものだろうし、自分のつくりだした製品を使う名もないユーザーのことを思い、愛情を注いで「ものづくり」をする気持ちを持っている技能職がたくさんいらっしゃることも日本の「ものづくり」の特長でしょう。

近代以降、特に前の大戦に敗北してからは、合衆国の文化が怒濤のように流れ込んできて単純に「自己実現」やビジネスのために「ものづくり」する人がたくさん現れて「やさしい“ものづくり”」の伝統はどこかに押し流されたようでしたしマスコミはじめ、世論も、そうしたことを評価しなくなっていました。

そして、今も世論はその系譜にあり「やさしい“ものづくり”」が正当に評価されていない状況は続いています。

でも、その一方で、誰が教えたわけでもないのに少数ながら 若い人の中に「やさしい“ものづくり”」は復権しています。

もちろん少数派ではあっても、以前から「やさしい“ものづくり”」は継承されてきてはいました。でも「少数派」であるが故に、大多数に影響を与えることもできず、一時は絶滅の危機に瀕していました。しかしながら、鳥が運んだ種が何千キロも離れた島で発芽するように、現在の世論とは、ほとんど結びつかないところから「やさしい“ものづくり”」が復権しているように思います。

不思議だなーと思うのですが、そういう人たちが日本のあちこちの技能の現場にいらっしゃいます。
東京にも、地方の町でも、大勢いらっしゃるわけではありませんが、必ず誰かは真剣な眼差しで技能に向き合っていらっしゃるのです。

そんなことから、アメリカナイズした時代というのは「はしか」みたいなもんで、この国の自然治癒力自体は衰えていなかったということなのかなと思ったりします。

僕には理論的な解説はまだ不可能ですが、ただただ、この幸運にはひたすら感謝したいと思っています。

心から、そう思います。

日本銀行券

どうやって日本銀行券(いわゆるお金=この国においての)と距離をとって暮らしていけるようにするか…
それが最大の課題です。
幸いにして、すでに「時間の切り売り」を糧にしているという状態は僕にはありませんが、それにしてもお金なしには暮らせません。10年前に比較すればびっくりするくらい消費支出も減らしましたし、マイホームやクルマは意識して、これを所有しないようにしてきました。病を得て、お酒やタバコとも無縁になりました。

でも、お金を使わないわけじゃない。
でも、貯金は危ない。
ここが思案のしどころです。

前の敗戦のとき、当時、多くの国民が買っていた戦時国債(今でいえば貯金みたいなもんですね)もパーになって、さらに、この日本銀行券の信用が短期期間にガタ落ち。闇市で食べ物を売ろうにも、仕入れ値が毎日上昇して人々は死ぬ思い…

僕は、その再来を懸念しています。

机上の計算は成り立ちますが、実践となると話は別。何事もペヤングのソース焼きそばをつくるようにお手軽に済むわけではないのが現実です。

オリンピックまでは保つとして、あと2〜3年。だれが政権を取っても、不時着の程度が軽くなるだけで無難な着陸は不可能でしょう。

何しろ家計資産の80%は60歳以上に集中し、前人未到の禁じ手=ゼロ金利が現状です。
あの当時、戦場に男たちを失った農地が耕作者を失ってとんでもない苦労をした状況と限界集落な現状はとてもよく似ていますし、空襲で焦土と化した都市部の状況と、無理な再開発と空き家とコイン駐車場、住人を失ってこれから苦境に立たされる大規模なマンションな都市部の状況もよく似ています。何しろ、銀行はタダでお金を借りてこれるのだから、デベロッパーやハウジング・メーカーは実際の消費水準をはるかに上回る物件を造り続けます。もちろん、実際には需要がないわけですから、そう長くは持ちません。サブプライム・ローンが短期間に弾け飛んだのと同じ原理です。

たぶん王道も指南書もありません。誰もこんな局面に直面したことがないからです。

さて…

とにかく考えては実験です。

似合いの姿に戻っていく

僕が子どもの頃は、ヨコハマの元町でも麦田のトンネル側、つまり5丁目をちょっと登っていったあたりには、こう申し上げてはなんですけれど、平均より、ちょっと貧しげな家があったり、元町の商店街だって、表通りには。確かに進駐軍相手の洋風なところ、同じく日本の骨董を扱う店なんかもありましたが、通り一本裏手に回ると、どこの街にでもある餅菓子屋さんとかもありましたし
横浜家具や楽器の工房があって、つくっている品物はハイソサエティな感じだったのかもしれませんが、東京の下町のような風情もあって、現在のように「街全体が一様に小洒落た感じ」はありませんでした。
元町と石川町を結ぶ商店街は、尚のこと庶民的で、魚屋さんもあり、定食屋さんもありました。山手の本通りだって、根岸に向かって歩けばその同じ空間が山元町という街場な商店街にそのまま繋がっていて

…なんていうんでしょう。

もっと混在していた感じなんですね。

それが、いつしかバッサリ断層面があざやかになって、中華街の裏筋あたりから怪しげな店が消え、しもた屋が並んでいたあたりも見た目は山の手な感じのセキュリティばっちりなマンションになり、階級都市としての上位層志向な空間が増殖して行きました。

(いかにも急ごしらえで ホンモノの上位層的な感じに寝れてはいないんですけどね。)

横浜市役所がつくる公園などの公共空間も「上位層」志向な空間ですしね。

いつの間にか、ヨコハマ都心は成金な感じに背伸びした空間になり、居住まいを正されるような場所になり、つまりは随分と風通しが悪い街になってしまった…

でも、だからこそ、似合いの姿に戻っていくんでしょうね。

オリンピック・バブルがハジけて、ヨコハマが「闇市からのやり直し」を余儀なくされて、ビジネスな連中が逃げ出したあたりから、品のいい街じゃないけれど、ちょっと変わったヤツが風切って歩いているような…そんな街に戻っていくのかな。ステイタス&ブランド志向な住民も逃げ出してね。

まぁ、希望的観測に過ぎないのかもしれませんが。

怪奇大作戦

「怪奇大作戦」は、1968(昭和43)年から翌69年まで、それまでのウルトラ・シリーズと同じ枠で放送されていた子ども向けの「空想科学もの」の物語です。やはり円谷プロの製作です。SRI=科学捜査研究所という架空の機関が、警察とともに事件を解決していく、探偵ものと合わせ技1本な感じのドラマです。

2007(平成19)年だったか、NHKのBS2では今月初め放送)、何の前触れもなく再放送され、なんだか唐突にリメイク版が放送され、その時はびっくりしましたが、できはオリジナルの方がぜんぜん上でした。きっと予算も時間も今回の方がはるかにゆとりがあっただろうに…まぁ、それだけオリジナルの出来がスゴいということなんだと思います。

オリジナルは全部で26本、ただ怖がらせようとするだけでなく、その多くの作品で、今日まで有効な解決策が見出されずにいる社会的な問題について、鋭い切り口で問題提起がなされている…というより、放っておくとこうなっちゃうよ、という感じで、今日の状況を予言したかのような作品群でもあります。

工場に働く、無口で孤独な青年が、無差別に、通り魔殺人を繰り返す第16回放送「かまいたち」、主人公には一言も台詞がなく、物語の中では、彼の”視線”というか、”眼の感じ”が強調されます。そして、犯行の動機は最後まで明らかにされません。

精神に異常をきたしていた犯人によって家族を惨殺された女性科学者が、そうした犯人によるの犯罪が無罪になる現代社会に復讐するために”狂わせ屋”を開業、依頼者を機械で一時的に狂わせて殺人を犯させ、罪に問われない殺人者を増産していくという第24回放送「狂気人間」…これは、現在、いわゆる封印作品となっていて、再放送もされませんし、発売されているDVDにも収録されていません。

核家族化の中、息子たちとも疎遠になり、孤独になった高齢の科学者が、子どもの代わりになるようにとつくった小型ロボットが、高齢者を大切にしない人々を殺していく第7回放送「青い血の女」。

ある山村に、合衆国の自動車会社が工場をつくるとして、土地買収騒ぎが起こる…ふるさとを護ろうとするおじいちゃんたちが、第二次世界大戦中に徴用された毒ガス工場で憶えたノウハウを活かして抵抗する第12回放送「霧の童話」…結局、おじちゃんたちは逮捕され、村は山津波に襲われる…そして、エンディング。立ち並ぶ工場群と、高速道路脇にひっそりと佇む石仏、そのかたわら、空を見つめる工員さんがひとりいて、事件のときSRIの捜査員と親しくなった少年を暗示させます。

多くの人々に顧みられなくなった京都の文化遺産を、それを愛している人々の中で護っていこうと、伝送装置をつかって盗み出す科学者。彼らは、ちゃんと筋を通していて、夜な夜なディスコ(この時代、クラブではありません)に出没しては、若者たちから「京都を売ってもいい」という署名を集めていた…これは名作の誉れ高い実相寺監督の第25回放送「京都 買います」…

いったいどっちが犯罪者だかわからなくなるような問題提起…あの頃だからできたのか、それとも彼らだからできたのか、あるいは子ども向け番組故のノーマーク、それで可能になったのか、視聴者であるところの、ごく普通の人々の責任を問う姿勢…

それにしても、約50年前、この番組でなされた問題提起をもっと真摯に受け止めていれば、今、いつくかの問題に、解決の道筋がついていたかもしれません。

たかが子ども番組なんて、番組に関わる方々こそ、そんなことは思っていないはずです。でも、それにしても凄い…何度もいいますが、正味20数分で、これだけのことを描くのです。ひたすら頭が下がります。

→ らいでんさんという方が運営していらっしゃる「怪奇大作戦」の資料サイトへ

↑ こりゃ凄い。まさに「怪奇大作戦」網羅…

かつてのカウンター・カルチャー

カウンター・カルチャー…辞書には「ある社会に支配的にみられる文化に対し,その社会の一部の人々を担い手として,支配的な文化に敵対するような文化。敵対文化」とあります。ややもすると「逆らう」がファッションです。

カウンター・カルチャーって、工業生産で富国しようとする政府が子どもたちを公的な学校教育で粒ぞろいの部品に仕立てようとしていくとき、その子どもたちの自然な命が、その風潮に争って顕在化していくのかなと思います。命の叫びですから、それは理性的なものではなく、衝動的なもの。故に、何に逆らっているのか、誰に逆らっているのか、どうして逆らっているのかも判らず、だんだん粗暴になっていく…それが自然な流れなのだと思います。

つまりカウンター・カルチャーって成就する中身もないのだろうし、一方で衝動的になりきれない(理性を消し込むこともまた不可能である)人間としてはだんだん虚しくもなっていくでしょう。

そうしたことから、三田誠広さんの「僕って何」ではないですが、私に帰っていこうとする向きもあるのでしょうが、衝動的なレジストだったから故に「学校教育で粒ぞろいの部品に仕立てよう」には実は無抵抗。気が付いたときには、平板で規格品的な部品としての自分しかなく、ほとんど個性は残っていなかったというオチまでついてしまうのが常でしょう。

カウンター・カルチャーしか知らない人たちは、これからどうしていくのかな。工業生産時代の申し子なのだからたくさんいらっしゃるはずです。

しかも標準世帯時代な彼らは多くの場合、子育てもしている。彼らの遺伝子は彼らの息子や孫に受け継がれてもいるはずです。

でも、彼らの息子や孫が、彼らの親世代にカウンター・カルチャーすれば違ってくるかな。

街かどには、そういう兆しも見えなくもないかもしれません。たんに複写機ではない自分を持っている、そんな「私」を持っている若者が、ふっと自分らしく生きているなら、彼らは、かつてのカウンター・カルチャーとは無縁の人々です。

三百六十五歩のマーチ

「三百六十五歩のマーチ」って、ああ、正式には「三百六十五歩の」って書くのかって、それすら初めて知ったとういうほど、僕にとっても遠い過去=子どもの頃のヒット曲。この楽曲は1968年(昭和43年)のミリオン・セラー、唄ったのは水前寺清子さん。当時としては、「大人から子ども」まで(水前寺清子さんのファンであろうとなかろうと)口ずさんだというミリオン以上の大ヒット作でした。

(若い方にはご存知の方も少なく、知っていたとしても、すでに戦後史の中のデータの一部のようなものでしょう)

しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね。
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ
汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ
きれいな花が 咲くでしょう

腕を振って 足をあげて
ワン・ツー・ワン・ツー
休まないで 歩け
ソレ ワン・ツー、ワン・ツー
ワン・ツー、ワン・ツー

何が言いたいのか、よくわかりませんが、雰囲気としては分業制の工場労働、その労働歌のようです。「辛いだろうが、余計なことは考えずに、休まないで働け」といわれているよう楽曲でもあります。

でも、1968年(昭和43年)の日本人は、この楽曲を好感を持って受け止めた…

考えさせられます。

僕も、低学年の小学生でしたが、あの時代の日本に居ましたから、よけいにそう思います。

ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー
ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー
ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー、ワン・ツー

この部分だけが異様に記憶に残っています。

(運動会で使ってたかな…)

なんだかわからない呪文に踊らせていた当時の日本人。日本社会。
当時の首相は佐藤栄作氏
安倍さんのおじいちゃんの実弟でした。

あの日に

市や高々九年しか勤めない余所住まいの教員組織に、何十年間も住民に強い愛着を与え続けた建物の改築を決める権限が生じるのか、私には理解できない。
〈中 略〉
震災で圧死した妹の棺が一週間安置されていた部屋がどう改築されたのか、改築後の校舎を再訪してみる勇気が私にはない。

松原隆一郎さんの著作「失われた景観 戦後日本が築いたもの」の「あとがき」に書かれていた、このふたつのフレーズが
ぐさりと刺さりました。つまり、紹介させていただいた短文は、圧死された妹さんの亡骸が安置されていた学校の校舎が取り壊されて、改築されるということに関しての松原さんの思いを語られたものです。

表題が示すとおり、日本の景観政策についての苦言と提言がいくつか掲げられている本ですし、そういった意味でもたいへん貴重な本なんですが、僕にとっては「あとがき」の印象があまりにも強く…
「高々(たかだか)九年」とおっしゃってしまう著者の気持ちも、また「余所(よそ)住まい」とわざわざ「余所」と表記されるところなども

察して余りあるというか…案外、こういうことについて他人事(ひとごと)なのではないかと
少し申し訳ない気分になりました。

妹さんはあの日にいた。そんな神戸出身の方の本です。

松原隆一郎 著 「失われた景観 戦後日本が築いたもの」
PHP研究所 刊(PHP新書)

2002年の11月の発売ですからブックオフとかを探していただいた方がいいかもしれません。

教科書なんてなかったはず

結局、僕は「ただいま」「お帰りなさい」と言い合えるような「場所」をつくりたいんだと思います。コミュニティな壁が高いんじゃなくて、風通しがいいやつ。出入り自由。常連が壁にならないような空間…

一見、難しそうですが、できなかないんです。

何度か、書かせているように僕の母系は、ひいばあちゃんがつくった非血縁家族の大所帯です。でも、そのなかに生まれてみると、非血縁な集合体だなんて思ったことはありません。なにしろ、僕の人生上「最も尊敬する人物のひとり」であるところのひいばあちゃんと僕も血がつながっておらず、しかも、それを知ったのは、ここ最近のことです。

僕だけではありません。昭和3年生まれの叔母(この叔母とも血縁関係にはありません)。で、この叔母がつくづく、うちのひいばあちゃんを、ほんとうに自分のおばあちゃんなんだろうと、ずっとそう思っていたというのです。
うちの冠婚葬祭には、こんな人ばっかりが参加しています。誰とも血がつながってないに等しいような…でも、子どもの頃の僕は、どうして、うちには、こんなにたくさん伯父さん、伯母さんがいるんだろうと、そう思っていたくらいで、他人とは思ったこともないのです。

(でもベタベタはしてないな。永のご無沙汰な人は永のご無沙汰だし、何より社交辞令的な気遣いがないな)

ちなみに、うちのオヤジの病のためにとオフクロが電撃引っ越しをしたマンションの鍵を、前出の叔母はフツウに持っていて、たまに僕が顔を出すと、その叔母だけがいて、お茶を飲んでいたりもしました。で、僕も、お茶を入れてもらったりして、世間話をしたりしている…核家族的なところから考えると違和感のある構図ですが、僕には、ちっとも不思議ではありません。今は、しっかり非血縁だということを知っていますが、そういうことで、こういう関係は変わるもんではないのです。

あかの他人が夫婦になれるのだから、非血縁が家族になるのも可能なんじゃないか。「実際、うちはそうだし」と思います。

(ご町内の全ての人とも親戚ぐらいの距離感だったと思っています)

そして、こういう関係を産み出したのは、命の遣り取りであり、命の貸し借りです。叔父や叔母たちの話しを聞いているとそうです。たぶん、趣味のサークルとか、マンションの管理組合みたいなところからは、こういう関係は生まれません。
でも、幸か不幸か、わが国は、また「命の貸し借り」をしなければ生きていけないような状態になってきました。少なくとも、高度成長期から80年代末のバブルの頃までは、そうしたことをしなくても生きていけたので、わが家のような非血縁家族は生まれなくなったし、廃れてしまったのでしょう。でも時代の状況としては、また、それが必要されるような感じになってきています。

一端、止めちゃいましたから、スーっとはいかないでしょう。でも、再び、そうなることは不可能ではありません。

僕にとっては全て手探りですが、ひいばあちゃんだって、そうだったはずです。
明治の末に女だてらにヨコハマで一人。教科書なんてなかったはずですから。