「手探り」上等!

たぶん「朝のラッシュ」「帰宅ラッシュ」は過去のものになっていくんでしょう。
そんなに遠い未来の話じゃなくて、数年から、かかっても10年ほどでの変化だと思います。

そして、いくつかの鉄道路線が交錯するターミナル駅終焉の商業集積地は急速にポテンシャルを落としていく。そのかわりに、現在は喫茶店不毛の地みたいな郊外の住宅地に、平日の昼間を過ごせるようなcafeなどが増えていくのかもしれません。ただし、おしなべて「郊外」全域がそうなるわけではなく、外国からの労働者の方が増えて、やっぱり昼間は空っぽ、マスな規模のスーパーに支えられるという地域も目立つようになるのでしょう。また「全国に1千万人はいるかも」ともいわれる団塊の世代の方々を中心に、しばらくは特別養護老人ホームを林立させる「高齢者の街」になるところもありそうです。

(高齢者の街は「都心」にも現れそうですが)

「終身雇用制」で「一億総中流」の時代は終わります。一億総フリーランスな感じだし、年金じゃぁ食えませんから(医療保険の自己負担額も増額していくんだと思います)、その年齢になっても続けられる仕事を持つ人とそうでない人の二極化も進んでいるでしょう。

(マニュアル・レーバーは、さらに国際的な競争に巻き込まれながら、買い叩かれる一方でしょう。AI化も進んで警備員さんやお掃除のスタッフといった仕事は消滅しているんだと思います)

ずいぶん、様変わりします。様変わりするということで「取り残されたもの」は消えていくのでしょう。観光案内ではなくタクシーのような交通利便としての「人力車」が、今は無くなってしまったのと同じです。「ターミナル駅」があるから「ショッピング・ビル」があったわけだし、多くの人の生活がクルマを運転するほどの移動を必要としなくなれば、ロードサイド・レストランも、郊外型のショッピング・モールも必要なくなります。新橋でサラリーマン・ランチの名店となっていたお店も「通勤してくる人」が激減すれば同様です。環境の変化に適応できなければ淘汰されるのが、この星の定めです。

ただね。「淘汰」とはいうものの「人間」の場合、あっさりと殺してももらえない。いきられる可能性があれば「生命」としては維持されてしまう。

なるようになって「それから考えればいいや」というライフ・コンセプトが通用しそうに思えたのも、この国が高度成長期〜バブルというあぶく銭な時代にあったからです。しかも、その時代は「集団」の一員になってくれる人材を常に求めていた時代なのです。半世紀以上もそうでしたから、親御さんからしてそんな感じという方も少なくないのかもしれませんが、必ずしも「通勤」が必要なくなるのも、AIやコンピュータの発達によって、たいていのことが個人技の集積でなんとかなりそうだし、工場生産はロボットがやっちゃうかもしれないし…つまり、環境激変なわけです。

この国で、組織的な集団に拠る農業生産が確立されたのは中世から江戸時代の初期だといわれています。その「組織的な集団」が工業生産にも受け継がれて、何百年経つのでしょう。幸か不幸か、僕たちは、そうした時代の終わりに遭遇してしまったようです。

故に「これまで」を振り返って「なるようになるだろう」とタカをくくっているのは危険なわけです。
「手探り」上等。「トライ&エラー」城東。準備を急ぎましょう。

怖いから目をつぶる

子どもの頃。初めてバッターボックスに立った時、怖いから目を閉じてしまう。でも、その怖さに勝って、よくボールを見据えないとバッティングにはなりません。ショートバウンドの捕球も同じです。
何ごとも球技ってそんな感じでしょう。怖いから目をつぶる。でも目をつぶっていたらゲームに参加できない。

自明の理です。

大人になって、世の中の変化に「見て見ぬふり」も、これに似てるかな。
しかも、球技なら「怖い」に勝つのが嫌なら止めちゃえばいいわけですが、人生の場合はそういうわけにもいかない。家族がいれば尚のことです。

まず、時代の変化に真摯に向き合うことでしょう。
納得できないこともたくさんありますが、小さな僕らは「時代」という海に漕ぎ出すしかない身の上です。

確かに、なるようになるもんでしょう。でも、高度成長期もバブルも終わり、二極化で少子高齢化な「これからの時代」においては、その「なるように」が悲惨なわけです。

たいていの球技がそうであるように、少しの間、「怖い」をこらえていると、知らず識らずのうちに「怖い」はどこかに飛んでいっているものです。

まずは「怖いから目をつぶる」からの離陸でしょう。

マニュアル

1961年生まれの僕は、マスな感じで就業者になり、消費者になるようにと教育された工業生産時代の子どもです。敗戦で戦前の世間が自信を失い、行政が施す教育一本槍になった団塊の世代から、ガンダム世代までがこんな感じでしょう。

この世代は学校教育に従順で、つまり、成績が良かった人ほど、性能のよい複写機ではあっても、創造力に欠如し、故に独立起業といっても、それはフランチャイジーの一員としてのものか、ショッピングビルに押し付けられた規約の中で行う「起業」が大半で、創造的な起業は「稀な例」に止まるでしょう。
与えられたマニュアルや規則を「憶えて、慣れる」で消化できる仕事を「マニュアル・レーバー」といいますが、僕らのスタンダードは、まさにこれだったわけです。

でも、このあたりは近くAIにしてやられます。

僕らは気の進まないことでも、真摯に働いている「ふり」をして凌いできましたが、AIは人間の作り笑いをたんなる形態としてとらえて、ここまでは完璧にトレースしてしまうようです。例えば、骨董趣味のお父さんが骨董自慢をするときのようなホントに楽しそうな(満足そうな)笑顔については、さすがのAIもコピー可能にするには、まだまだ時間がかかるようですが、「ふり」までは、僕らよりもはるかに上手くやる…

たぶん、次の東京オリンピックが始まる頃にはキャッシュ・オン・デリバリーのcafeやハンバーガー屋さんなどはPepper君みたいなロボットがいるだけになるか、あるいは無人でしょう。農業も建設現場もGPSの精度が上がって、すでにかなりの分野で無人化が可能です。顔認証があれば守衛さんもいらないし、一般的な「清掃」もロボットとAIのものでしょう。今、50歳代も半ばの僕は、下手をすればあと20年以上も働いていなければ食えませんが、それまで「マニュアル・レーバー」が保つとは思えません。

「経済成長のために」は、オールマイティな免罪符です。

一方、組織や集団で働くことがスタンダードすぎて、僕らはフリーランスな働き方を想像することができないというのもあります。

(工業生産時代は画一化の時代でもありましたから、その時代を長く生きてくると、物事たいていは「百花乱舞だ」ということを忘れてしまって、一種類か、せいぜい数種類の類型に全てが当てはまってしまうと思ってしまう。自営も給与で就業する人も、ライフスタイルに大差はないんだろうと信じ込んでしまうというわけです)

地域の自治会などに、退職後のお父さんが参加して「私は〇〇会社の部長だった」と自己紹介したきり「動かない」し有効な解決策を提案することもしないという話しを聞きます。もちろん地域の自治会に会社が与えてくれた「自分の部下」はいないのに…です。

工業生産時代の子どもは、よほどの変わり者でない限り、与えられた組織の中での位置付けを争うことはできても、自分で起業するということは「できない」「やろうとしない」がスタンダードです。故に独立起業といっても、それはフランチャイジーの一員としてのものか、ショッピングビルに押し付けられた規約の中で行う「起業」が大半で、創造的な起業は「稀な例」に止まるでしょう。

自分でつくったと思って、実は「与えられた」だし、そうは自覚していないのが工業生産時代の子どもでしょう。

だから、与えられないと何もできない。与えられてもいないのに「与えられた既成のもの」と同じように扱い、振る舞ってしまう。

行政にしろ、会社にしろ、近く 与えてはくれなくなるでしょう。
自分で、創造的に仕事を切り拓いていくヤツとは喜んで組みたがるでしょうが、年功序列にじっとしている人は歓迎されないだろうし、行政は貧乏な上に借金を重ねて、しかも上位層にこそ、そのお金を撒いている…

でも、この長寿社会に中高年な工業生産時代の子どもたちは、複写機で、集団生産の自分の分担のところにしか知識も経験もない。しかも、その歪さに自覚がなくて、我流に美味しい蕎麦が打てれば、それで「退職後に蕎麦屋」でなんとかなると思ってしまうし、その「蕎麦屋」からして(無意識のうちに)マス的な流行に乗ったもので、ライバルはたくさんいるというのがオチです。

世の中、荒れるでしょう。
誰もマニュアルをくれないし、指示もしてくれないんだから仕方ありません。

責 任

荷風のことでいじめられている息子さんを持つ荷風のご子息に「有名人の子どもだからって贔屓しない」とまで言い放った先生は、その後、どういった人生を歩まれたのでしょう。

僕らは大衆の一員である限り、社会にモノ申して聞き入れてもらえないかわりに、法に触れることを犯さない限りはその罪や責任を問われることもありません。だから「有名人の子どもだからって贔屓しない」とまで言い放った先生も、その後も「先生」業は続けられたのでしょう。

実質、権利の行使は難しいのだから、止むを得ないともいえます。これくらいのこと、みんなもやっているだろう…確かに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった状況もあるわけです。

「そうせよ」と命じられて、そうするのなら、それは他人の意思であって、僕の意識ではない。
全ては自覚に拠ることです。

よー、そこの若いの
俺の言うことをきいてくれ
「俺を含め、誰の言うことも聞くなよ」

よー、そこの若いの
君だけの花の咲かせ方で
君だけの花を咲かせたらいいさ

君だけの汗をかいたらいいさ

さぁ、どう生きていきましょう。

ルポ 川崎

例えば「川崎市に将来性がある(あるいは「ない」)」というように、イマドキは自治体ひとつを一面的に語れる時代ではありません。でもまぁ、川崎市はデータ的にはとても成績がいい。全国的にみても、かなり優秀な方です。しかし、そうしたことを皮膚感覚で確認してみようと歩いてみると「あれ?」と首を傾げたくなる感じがする。東芝問題があってから南武線沿線にも微妙な影がさすようになり、百合ヶ丘あたりだって早くも高齢化に空洞化の気配。武蔵小杉もどうみても今がピークです。現状だって、住居ばかりが先行して生活消費は思ったほどではなく、小売な儲けは東京に吸い上げられていく状況にある(ごくごくフツウの地方都市な様相ですね)。

試しにプロボノ的にお役人とも付き合ってみましたが、さしたる実力を感じることもなく、無責任なお役所仕事がスタンダードな感じ…

彼らが川崎のイメージを変えていったわけではなさそうです。

データは「書き方」でもありますからね。眉唾だったかな…そんなふうに思い始めていたら、こんな本に出会いました。磯部涼さんの「ルポ 川崎」(サイゾー 刊)。あの月刊サイゾーに連載されていた記事が大幅に加筆されて一冊になった本です。
磯部さんは音楽ライター。そうしたことから地元のラッパーやミュージシャンたちにインタビューし、ヤクザ、ドラッグ、売春、人種差別までドキュメントし、シンユリやムサコが川崎のイメージを塗り替える前の川崎が、以前よりさらにディープになって、そこに横たわっていることを浮き彫りにしていきます。社会学者であるよりルポライターであるからこその仕事っぷりです。

磯部さんは、今の川崎が「日本の未来」を象徴しているのではないかとおっしゃっています。

川崎駅に直結したピカピカのショッピングモールを出てみれば、そこはどこもが「くたびれた街」。高齢化は風俗産業にも及び、ドヤ街の安宿には住居を持たない独居老人。
川崎の臨海部には旧くから移民問題もあるし、出口のない貧困の問題もある…近年の川崎はキレイな包装紙に包まれきたけれど、かねてよりの問題は重症化しつつ放っておかれたのかもしれない。

そして、近く手に負えなくなる…

シンユリやムサコはどうなっているのか。ある種の人々にとって格好のターゲットになっている可能性もある…

その前触れとしての

「中一殺害事件」「ヘイトデモ」「簡易宿泊所の大規模火災」

そして 日本中の都市が「川崎」になっていくかもしれないということ。

取り締まりを強化し、規律を正しても無意味であることを噛み締めながら、まず、この本を、今、読んでみるべきなのでしょう。

       磯部涼 著 「ルポ 川崎」(サイゾー刊)

僕が生きているうちに

空きビルで水耕栽培された野菜と、陸地で人工飼育された工業生産品のような魚、ブロイラーのような肉、農薬漬けの小麦などを食わされながら、娯楽な消費でまたお金を巻き上げられ、仕事もないからベイシック・インカムで生きていく。病気をすれば、今度は自分が工業生産品になったようにオートメーションな感じに処理(治療)されて、死んだら死んだで、まるで産業廃棄物を処理するように燃やされて、共同の墓地に投げこまれる…そのときは、当然「おひとりさま」で、葬式もナシ。

これから この国でごくごく平均的な所得階層の国民をやっていると、未来はこんな感じかな。

遠い将来の話ではなく、僕が生きているうちにそうなる…って、そんな感じ。

パンドラの匣を開けてしまったから

社会システムの利便性を向上させる…つまり僕らの都合に合わせて、さらに「苦労」を滅していくということですが、そういうことを私企業の努力に委ねると(行政が誘導するにしろ)たいていは「行き過ぎ」ということになるのが現状です。
何しろ、欲得づくの収益事業として、それを行うわけですから、大体は暴走…より収益が上がるなら株主はじめ資本家も納得でしょうし、逆に「公に準じて利益を譲歩」なんて彼らがそんな提案に納得するとは思えません。

繰り返しますが、つまり「行き過ぎ」になる可能性が高いわけです。

ご承知のように、政府にしろ、地方自治体にしろ、もう自主財源に乏しく借金だらけ。1990年代から「民間活力の活用=ミンカツ」の奨励という名目で、あらゆる分野の公共事業に「民間の収益事業」を呼び込んできました。

そして、現在は「人出不足を解消するため」の(仕事の)AI化、ロボット化が進んでいます。

無人のレジもすでに社会実験は終わっている段階です。ホテルのルームサービス・ロボも同様です。ホントに「不足を補うだけ」ならいいのですが、たぶん暴走します、行き過ぎてしまいます。

イベントの現場でも、借りてくるレンタル物品の値段より、予算を編成する人を悩ますのは「運んでくる人/設置したり撤去したりする人」の人件費です。飲食店でも、コンビニでも抱えている悩みは同様です。

与えられれば、現場は、喜んで「AI化、ロボット化」を受け入れるでしょう。

オックスフォード大学でAIの研究を行うマイケル・オズボーン准教授は、今後の10〜20年で、アメリカ合衆国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いと予測しました。その中には「銀行の融資担当者」も含まれますが、実際に、我が国の銀行大手も相次いで「店舗を減らす」「人員削減する」を発表しています。
僕らが、1秒間に500万局面を読む将棋AIに太刀打ちできるわけはありません。そして彼らは寝ないし、風邪もひかない。休みも要求しないし、電気しか食わないのです。

パンドラの匣を開けてしまったのかなぁと思います。

オズボーン准教授ではないけれど、マニュアル・レーバーやそれに近い仕事を「憶えて、慣れる」という働き方の命は、あと10〜20年と思った方がいいのでしょう。
一方、医療の分野は、大手を振って税金を投入することができるのだから、いたずらに寿命は伸びて「人生=100年」時代です。例えば僕は、今、50歳代の半ばですから、あと10〜20年といっても60歳代〜70歳代です。脳出血のキャリアですが、あと数年で脳出血では死ねなくなると言われています。

障害の残るジジイになって、それから露頭に迷うのは、どう考えても大変です。貯金や資産はインフレで、貯めておいても目減りです。僕ごときがどうあがいても足りないでしょう。

さて…

とにかく考えるしかありません。これからに役立ちそうな資格を探してきて試験勉強をするのではなく、考えるのです。

それしかない。

型通りに店舗を構えてもダメでしょう。お客さんになってくれそうな人をして収入がないかもしれませんからね。

…八方塞がり。

でも、ダーウインの進化論がいう「適応」とはここからなんでしょう。鳥になれた恐竜だけが生き残れた所以です。

「画一化」の時代から「多様性」の時代へ

学校教育というプロパガンダのせいかもしれまでんが、工業化な時代に育った世代は、自らも進んで「みんな」に倣おうとしてきました。みんなが聖子ちゃんカットなら私も聖子ちゃんカット。(僕らより)少し上の世代で、これがミニスカートになり、少し下の世代でスーパーカー消しゴムやキン消しになるといった具合です。つまり、仕事も娯楽も「与えられた選択肢」の中から選ぶものだし、その「選ぶ」も自分の欲求に忠実であるより「周囲を見回して」のもの…そんな感じでした。

それだからでしょう。「仲間を増やせるヒト」「多くの人を先導できる人」はピカピカで、右翼であろうと、左翼であろうと、味方の数を増やすこと=多数派になるために力を発揮できる人こそがヒーローでした。一人一人の個性より「群」の規模を大きくできる人。「従わせる」ことが上手い人が評価されてきたわけです。

集団的な農業も、大規模な工業生産も、あるいは組織的なサービスの提供も、全ては「みんな」が均質に息を合わせて労働するか否かで、その生産性に大きな違いが出てくるものです。故にみんなが揃って働く姿は「美」でもありました

(故に、仲間に過度の同質化を求めて、ちょっとした差異が認められなくて離合集散を繰り返してもきました)

ところが、不眠不休なシンクロニシティにかけてはAIとロボットに、我々、人間は敵うわけがない。労働時間の長さ、それを維持するために必要なコスト、仕事の精度…どれをとっても勝負にならない。そして、人間に残される仕事は「新しい知価(情報)を創造すること」「高次な交渉」「AIを凌駕するほどの手業」などで、いずれも「集団的な生産」態勢自体が非効率で、個性が戦力になる分野でもあるわけです。

つまり、「従わせる」ことが上手い人、特にマスな人数を「従わせる」ことが上手い人が評価される時代は終わっていくのだと思います。

これからは、多様な人々のそれぞれに深呼吸できるような環境と時間をそれぞれにメイキングできる…編集者か、キュレーターみたいな人がピカピカになっていくのでしょう。あるいは、それぞれに光っちゃえば、あとは受けての判断ということになるのかもしれません。

アジテーターやオルグな人が活躍した時代の終わりです。