「画一化」の時代から「多様性」の時代へ

学校教育というプロパガンダのせいかもしれまでんが、工業化な時代に育った世代は、自らも進んで「みんな」に倣おうとしてきました。みんなが聖子ちゃんカットなら私も聖子ちゃんカット。(僕らより)少し上の世代で、これがミニスカートになり、少し下の世代でスーパーカー消しゴムやキン消しになるといった具合です。つまり、仕事も娯楽も「与えられた選択肢」の中から選ぶものだし、その「選ぶ」も自分の欲求に忠実であるより「周囲を見回して」のもの…そんな感じでした。

それだからでしょう。「仲間を増やせるヒト」「多くの人を先導できる人」はピカピカで、右翼であろうと、左翼であろうと、味方の数を増やすこと=多数派になるために力を発揮できる人こそがヒーローでした。一人一人の個性より「群」の規模を大きくできる人。「従わせる」ことが上手い人が評価されてきたわけです。

集団的な農業も、大規模な工業生産も、あるいは組織的なサービスの提供も、全ては「みんな」が均質に息を合わせて労働するか否かで、その生産性に大きな違いが出てくるものです。故にみんなが揃って働く姿は「美」でもありました

(故に、仲間に過度の同質化を求めて、ちょっとした差異が認められなくて離合集散を繰り返してもきました)

ところが、不眠不休なシンクロニシティにかけてはAIとロボットに、我々、人間は敵うわけがない。労働時間の長さ、それを維持するために必要なコスト、仕事の精度…どれをとっても勝負にならない。そして、人間に残される仕事は「新しい知価(情報)を創造すること」「高次な交渉」「AIを凌駕するほどの手業」などで、いずれも「集団的な生産」態勢自体が非効率で、個性が戦力になる分野でもあるわけです。

つまり、「従わせる」ことが上手い人、特にマスな人数を「従わせる」ことが上手い人が評価される時代は終わっていくのだと思います。

これからは、多様な人々のそれぞれに深呼吸できるような環境と時間をそれぞれにメイキングできる…編集者か、キュレーターみたいな人がピカピカになっていくのでしょう。あるいは、それぞれに光っちゃえば、あとは受けての判断ということになるのかもしれません。

アジテーターやオルグな人が活躍した時代の終わりです。

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