左脳的な理論だけで

スージー鈴木さんの著作「1984年の歌謡曲」に、作詞家の康珍化さんをアナライズして以下のような一節があります。

この人、比較的芸風が広い人だとは思うが、ここで注目したいのは、当時のいくつかの作品タイトルに表れた、独特のセンスである。『悲しみがとまらない』(杏里)、『まっ赤な女の子』『艶姿ナミダ娘』『渚のはいから人魚』『ヤマトナデシコ七変化』(以上、小泉今日子)、そして、杉山清貴&オメガトライブの『君のハートはマリンブルー』、『サイレンスがいっぱい』『ガラスのPALM TREE』。
この独特な言語感覚を説明するのは難しいが、あえて言えば「コピーライター的言語感覚」とでもいうべきか。例えば「悲しみ」という抽象名詞に「とまらない」を付けるなど、文字面に積極的な意味は無いが、でも何となくイメージがふわっと湧き立つ感じのタイトル。この感覚は、「不思議、大好き。」「おいしい生活。」など、当時全盛を極めていた糸井重里のコピーと共通するものである。『君のハートはマリンブルー』も、イメージは分かるけれど、よく考えると、意味はつかみきれない。

引用部分の最後の「イメージは分かるけれど、よく考えると、意味はつかみきれない。」は、つまり「右脳にはよく伝わってくるが、左脳的な理論としては説明がついていない」ということなんだと思います。

…左脳的に説明のつくことが全てではない。そして「右脳」にこそ響くメッセージは実在する。

僕は、このことを無視して、左脳的な理論だけで造ってしまったのが、あの、どこかに寂しさを抱え続ける「再開発の街」なのではないかと思っています。

あたたかみは右脳側で感じるんでしょうね。でも、つい最近まで(いや、今も)左脳的な理論で説明がつけば、それが全てだと思ってしまっている。「まちづくり」といえば「建築」という理系の仕事という考え方も、そういったことから派生したものでしょう。

ただ、そういう時代も、もうそろそろ終わりかな。

「左脳だけが全てじゃない」って認識が一般的になりつつあるわけですからね。

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