かつてのカウンター・カルチャー

カウンター・カルチャー…辞書には「ある社会に支配的にみられる文化に対し,その社会の一部の人々を担い手として,支配的な文化に敵対するような文化。敵対文化」とあります。ややもすると「逆らう」がファッションです。

カウンター・カルチャーって、工業生産で富国しようとする政府が子どもたちを公的な学校教育で粒ぞろいの部品に仕立てようとしていくとき、その子どもたちの自然な命が、その風潮に争って顕在化していくのかなと思います。命の叫びですから、それは理性的なものではなく、衝動的なもの。故に、何に逆らっているのか、誰に逆らっているのか、どうして逆らっているのかも判らず、だんだん粗暴になっていく…それが自然な流れなのだと思います。

つまりカウンター・カルチャーって成就する中身もないのだろうし、一方で衝動的になりきれない(理性を消し込むこともまた不可能である)人間としてはだんだん虚しくもなっていくでしょう。

そうしたことから、三田誠広さんの「僕って何」ではないですが、私に帰っていこうとする向きもあるのでしょうが、衝動的なレジストだったから故に「学校教育で粒ぞろいの部品に仕立てよう」には実は無抵抗。気が付いたときには、平板で規格品的な部品としての自分しかなく、ほとんど個性は残っていなかったというオチまでついてしまうのが常でしょう。

カウンター・カルチャーしか知らない人たちは、これからどうしていくのかな。工業生産時代の申し子なのだからたくさんいらっしゃるはずです。

しかも標準世帯時代な彼らは多くの場合、子育てもしている。彼らの遺伝子は彼らの息子や孫に受け継がれてもいるはずです。

でも、彼らの息子や孫が、彼らの親世代にカウンター・カルチャーすれば違ってくるかな。

街かどには、そういう兆しも見えなくもないかもしれません。たんに複写機ではない自分を持っている、そんな「私」を持っている若者が、ふっと自分らしく生きているなら、彼らは、かつてのカウンター・カルチャーとは無縁の人々です。

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