「食っていけるほどの何か」をつくること

知らず識らずのうちに、僕は
僕の複写機としての性能の優秀さを語り、ただただ消費者としての選択眼を誇って、それが全て…つまり、生産者としての僕の能力に無査証にいるのではないかと
ときどき振り返ってみることにしています。

だって、学校で教わったのは複写の能力と辛抱して組織の一員でいること。マスメディアには賢い消費を促されて、「つくる」ことに教師はいませんでしたから。しかも「賢い消費」とはいえ、それは企業のプロパガンダ。彼らの思惑通りの消費者に仕立てられただけです。中華街の近くで育ちましたが、たぶん「青椒肉絲」という言葉を知ったのはテレビCMの方が先です。

僕は誰? どこまでオリジナル? どこからオリジナル?

冷静に俯瞰して振り返ってみなければ安心できないというわけです。

マニュアル・レーバーの時代は近く音もなく終わります。スーパーのレジだって、知らぬ間に「無人」になりつつあるではないですか。消費者としての僕らが「より安くよりもの」を求めれば労働市場の国際化もさらに激しいものになるでしょう。

僕らは、何がつくれますか。知価(情報)でも、モノでも、「みんなでつくるシステム」に参加するのではなく、「自分で何か、食ってけるほどの何か」をつくることができるかどうか…

そこを、自分に厳しく問うていって あしたがあるのかな。

どんどん平均寿命が伸びていく時代の「1961年生まれ」の僕としてはそう思っています。

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