イメージとしてのヨコハマ

僕はヨコハマの港近くに育ちました。育った家は、僕で4代目。140年、港近くに暮らす家で、創業者のひいばあちゃんは秩父の人。無一文からの成り上がり。読み書きはできなかった。そして、そういう「家」があったご町内も地方出身の出稼ぎな労働者。確かに外国人は珍しくはありませんでしたが、エスタブリッシュとは程遠い、アメリカ軍人か軍属、アジア系な労働者たちでした。

これが僕の「ヨコハマ・リアル」だったので、もともと「イメージとしてのヨコハマ」には居心地を見出せませんでしたが、さらに80年代から、90年代も半ばを過ぎると加速度的に「イメージとしてのヨコハマ」が増殖し、僕のリアルはどんどんと切り取られ、かき消されていきました。

そして、ついに行き場を失って、僕は埋め地を後にすることにしました。

でも、もともとは溺れ谷を新田化したところの、さらに地先を開港地にした旧都心と、横浜駅東西口周辺の埋め地を離れれば、簡単に「イメージとしてのヨコハマ」は希釈されました。なぜなら「埋め地」とは異なり、旧くからのドライ・ランドには長い歴史のリアルが綴れ織りになっていて、おいそれと「消去して書き換える」などということが(人間には)不可能だったからです。

埋め地は、悲しいかな「地盤」ごと「人工」です。あらかじめ、何もない広大な「平ら」を造って、道から建物から「絵に描いた」通りです。故に短期間での全面的な「書き換え」も可能。高校生の頃、女の子を誘って花火を見に行った倉庫街は、今、立派な高層住宅地です。僕には喪失感がありますが、僕が知っている「倉庫街」もたかだか数十年の街並みでした。

その諸行無常な感じが「埋め地」を離れるだけで、ずいぶん薄まるのです。台地は面的な開発が難しいので「イメージとしてのヨコハマ」が大挙して侵略してくることもありません。「埋め地」に暮らしていた頃には知らなかった自然も豊富です。今、僕が暮らしているのはもちろん横浜市。エッジではありますが郊外とはいえない距離にあるところ。でも「イメージとしてのヨコハマ」に押しつぶされなくて済むような場所です。

10分も歩けば、もとの埋め地。未だに狐につままれているような気がするときもあるのですが、でも「イメージとしてのヨコハマ」から遠く離れて、とても落ち着いて暮らしています。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中