僕ら「庶民」を指して「大衆」というときもあれば「公衆」というときもありましたね。最近、特に「公衆」という言葉には、あんまり出会わなくなりましたが僕が子どもの頃には、この言葉を記した表示とか、看板にしばしば出くわしたものです。
まずは「大衆」という言葉…
これは どうも、上層の階級からこちらを見て、そう名付けられたもののようで、他人のことなどお構いなしに、我欲に突っ走る「群れ」。つまりは、カンダタの蜘蛛の糸に群がってきた亡者どものようなそういうイメージに則って名付けられたもののようです。
一方「公衆」という言葉は「大衆」側の立場に立った識者が造った言葉のようです。「群れ」は「群れ」でも、それなりに秩序だって社会を形成できる人はいる。全部が全部、そうとはいわないけれど、自律的な「公」を創造できる人たちいる…
で
そういう人たちは、同じ「衆」でも「公衆」であると。
ふたつの言葉はそういうふうに「見立ての違い」から使い分けられて用いられていたものだそうです。そういわれてみれば「公衆便所」「公衆浴場」など、自律的にモラルをまもってもらわないと都合が悪いところにこそ「公衆」という言葉が充てがわれていて、「大衆酒場」など、ストレス発散…ちょっとはわがままになってもいいよというところには「大衆」が充てられているような気がします。
僕はね。「僕らの自立」という観点から、改めて「公衆」という言葉、その概念を検証してみる必要があるのかもしれないと思っています。
(誰かに「公衆になれ」と命令されるんじゃなくてね)
何しろ、行政任せにはできない時代です。「公」のこともセルフ・サービス。誰かに「やってもらう」を待っていても、手を差し伸べてもらえない時代が来そうですからね。つまり、自分が「公衆」であることが必須になってくる可能性がある…
僕は、そんなふうに思っています。