マス・プロダクトな工業生産品の経験しかない

インスタント・コーヒーを何杯いれてみたところで、バリスタにはなれませんね。マス・プロダクトな工業生産品は消費者&利用者に技術を要求しませんから、消費者&利用者の経験しかなければ「技術」を身につけることはできません。口うるさい消費者&利用者になるだけです。
まだ、コピペに価値がある時代なら「慣れている先達」として食って行く道もあったのかもしれませんが、インターネットは普及してしまえば「見本になること」はみなタダです。

もちろん、ときどきは「創造的な消費」から、なんかの技術を身につけていらっしゃる人もおられるのだろうとは思いますが、たいていは「量」として消費の回数が多いだけで、そこに主観的な感想や加減を見出しただけ。それもジャンルは限られるでしょう。「インスタント・コーヒーを入れる」「カップ麺をつくる」では、さすがに「創造的な消費」も効かないと思います。

つまり、マス・プロダクトな工業生産品の消費者としての経験しかないことは、知価(情報)生産には、かなりのハンディになるということです。でも、大量生産&大量消費の時代は、衣食住、生活のあらゆる場面を「マス・プロダクトな工業生産品」で染め上げていきました。僕らは「楽チン」を美徳に、完全無欠の消費者になっていったというわけです。

マス・プロダクトは、僕らから技能を奪い取っていくだけでなく、個人的な判断力をも奪い取っていきます。とにかく、「学校」「マスメディアからのメッセージ」によって、ひたすら「都合のいい消費者」に仕立てられていくわけです。

本当は誰にだって個性があるのに、そこを塗りつぶして、できるだけ多くの人が「アナと雪の女王」に酔ってくれることを望む。そして無芸な僕らは与えられたマニュアル・レーバーの中でしか働けない…だが、工場は海外に移転し、サービス業の労務は国際的な競争に巻き込まれる。

でも

自分を振り返って、これから「蕎麦打ち」を目指しても、僕にマス・プロダクトな工業生産品の蕎麦を食べた程度の経験しかなければ、大規模な資本を投じて開発された蕎麦打ちロボット以上の仕事はできないのだということです。

幸運にも、学校が教えない「何らかの技能」を持っていた「家」にでも生まれついていれば別ですが、たいていの核家族には、子どもたちに知恵をつけさせるといえば学校教育で、学校の成績以外の尺度を持たないのがスタンダード。そして衣食住に溢れる食品、物品の大半は「マス・プロダクトな工業生産品」。その味しか知らないし、その扱い方しか知らない。そして、何かを一からつくったことはないのです。

マス・プロダクトな工業生産品が世の中を席巻して以降の時代しか知らないたいていの人が路頭に迷うのかもしれません。少なくとも生活水準をかなり落とさなければならないのでしょう。

でも、解決は難しい。ポスト工業生産時代の就労の設計は原発の廃炉作業のように未知で、困難なものです。

暴動必須なのかと胸が苦しくなります。

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