我田引水の嵐の中で

僕が若い頃は、長い時間をかけて「修行する」なんて、あまりクレバーなことではなくて、何事もアドリブに近くサクッといくのがスマート…というような風潮が、特に若者にはあったように思います。「鉋10年」みたいなことを目指すのはバカなことで、できるだけ有給が多い、定時に帰れる、且つデスクワークをゲットすることがクレバーで、そのためにブランドな大学を目指す…そんな感じだったでしょうか。

つまり「鉋10年」を志向するのは「変わり者」だったわけです。

工場での生産や定型のサービスを提供するようなマニュアル・レーバーにおいての就業者については、その「マニュアル」を離れれば「ただの素人」である方が、会社にとっては都合がいいものです。労働者を囲い込むことができるからです。イッパシの技能職は個人として社会的な評価を得ることができますが、会社に評価してもらえなければ「ただの人」に留め置くことが「会社の人事」のコツでしょう。

だから、社会的な風潮も「アマチュア礼賛」なのかなと思うことがあります。社会に自然に巻き起こった風潮に思えて、案外「政府や企業主導のプロパガンダに拠る」ことが少なくないからです。

証拠はありません。実際に文学や音楽の「既成」を打ち破って「あした」を創っていくのはアマチュアだったりもします。でも「素人裸足」の横行は、本物の技芸についての評価や育成に悪影響を及ぼすことも事実です。全国に流布した「よさこい」流れのチーム舞踏も、紐帯の薄れた街で、人と人とのつながり確認するには、とても有意義なものだと思いますが、そこでの「上手い」の評価がその場においての「踊り技芸」の「絶対」になってしまうと、あまりいいことではないなとも思います。

例えば、あるカップ焼きそばのふた部分に、その作り方を「調理方法」と銘打って説明してあるわけです。
単語というのは虚しいもの。お母さんが真心込めて手料理するも「調理」なら、お湯沸かしてカップにお湯を注ぎ、そのお湯を捨ててソースをけけるだけの行為も「調理」と表現できないこともありません。もちろん、カップ焼きそばを作るのも、熟練の調理人さんが料理を作るのも「調理」です。

そして「お湯沸かしてカップにお湯を注ぎ、そのお湯を捨ててソースをけけるだけの行為であるところの調理」が独り歩きをする。この媒介になりがちなのが「アマチュア」です。

アマチュアには、明確な師匠がいません。だから「それ、違うよ」と指導を受けたことがない。もちろん学校教育はありますが、多くの場合、十把一絡げ。我田引水な解釈も問題にならなければ修正されることもなく放置されます。そして、生徒たちは我田引水な解約を「自分で考える」と誤解しながら大人になっていくわけです。

あの頃の「郵政民営化」、今の「TPP」。この内容をどれだけの有権者がきちんと理解していたのか(いるのか)…

我田引水の嵐の中でポピュリスム。これも「工業生産時代(産業革命以降の時代)」の置き土産なんでしょう。

怖いなと思います。

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