終わること  ー政治家の時代ー

「あと何年」などと見通せるわけではありませんが、政治家が「先生、先生」ともてはやされる時代も、そろそろ終焉という時期にさしかかってきているのかなとは思います。

彼は、彼の発する弁舌、言説の巧みさによって「群」として人を動かし、多数決に依る民主主義を左右します。でも、彼の判断が必ずしも正しいものではなく、ときに彼は独裁者になり暴走することもあるわけです。逆に言えばいつかは「権力者」になることを志向しているのが「政治家だ」と言えるのかもしれません。もちろん、中には「善き公僕」を目指して政治家を目指す人もいるのでしょうが、多数決に依る民主主義はそのあたりを査証する方便を持ちません。

(官僚にそれを委ねれば、きっと彼らを最高の権力者に押し上げるだけの結果しか得られないでしょう)

かのマックス・ヴェーバーは
政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)—責任感(Verantwortungsgefühl)—判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。」といっていますが、これを社会的に査証するアイディアについては不明瞭です。また「本来的に官吏は政治をなすべきでない。官吏は行政を『憤りも偏見もなく』行うべきである。なぜなら党派性や闘争といったことは、官吏ではなく政治家の本領に属するものだからだ。」ともいっていますが「党派性や闘争」とお役人を切り離すアイディアについては空白です。

アドロフ・ヒトラーは「活動家」なのかもしれませんが、少なくとも、いっときは「政治家」だったのだと思います。そして、その「政治家たるヒトラー」は権力者であり、独裁者になりました。その佇まいは中世以前の暴君とも変わらぬものだったでしょう。フランス革命後のジャコバン党の恐怖政治の時代の為政者にも同じような臭いがします。

さて、政治家、あるいは「政治」… それは僕らに何をもたらしたのでしょう。ひとつだけいえるのは、多数決に依る総意を取り入れるようになっても、闘争や虐殺、戦争は止められなかったということです。

インターネットの普及が、この「総意」の実像をさらに「露わ」にしていくでしょう。

山中深く分け入って捕いましたるこのガマを四面鏡ばりの
箱に入れるときは、ガマはおのが姿の鏡に映るを見て驚き、タラーリタラーリと油汗を流す、これをすきとり…

ご存知、ガマの油売りの口上です。僕らは今、この状況に置かれています。「ガマはおのが姿の鏡に映るを見て驚き、タラーリタラーリと油汗を流す」ようになり、そして、政治家の資質とされる「情熱/責任感/判断力」についてを考えるでしょう。かの国のEU離脱の件も、そのプロセスのひとつになるのだと思います。

これまではインターネットがありませんでした。つまり、鏡がなかったのです。
一国の国民挙げての投票行動が、国際社会にどのような評価を受けているのか、即時にフィードバックされてくることもありませんでした。もちろん投票行動についての詳細なデータ分析もです。

たぶん、政治に失望し、自分たちに失望するでしょう。特に「思い遣りのなさ」に…

自分の主張を通そうと、闘争する…。この虚しさにタラーリタラーリと油汗を流す。もう終焉は始まっています。

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