引用

街と自営

都市に集まり、都市に暮らす人々が何を着ているか? 裏原宿や渋谷に集まる若者のクラブファッション、丸の内のサラリーマンのスーツ姿、あるいは下町の夏祭りの浴衣姿。街にはそれらしい空気感を醸し出す人の姿が必要だ。それがない限り、街はいつまでたっても映画のセットや舞台装置のように空しいものになるだろう。

これは南谷えり子さんと井伊あかりさんの共著「東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論」(平凡社新書)からの一節です。仮にその着目点がファッションに留まるものなら、僕は、ちょっと異論がありますが空気感を醸し出す人の姿が「人々の生き様」に至るなら、この文意に「大いに賛同」というところです。この文章は以下のように続きます。

都市の景観の最後の仕上げは、そこに集う人々の存在だ。どのような人たちが集まってくるのか、それが景観を作り上げていく。その意味では、街に集まる人たちのファッションは都市景観の最小単位として、都市を構成していく。
そしてこの最小単位は、行政による都市計画や、才能に恵まれたひとりの建築家やアーティストが設計した建物やモニュメントによってかたちづくられるものではなく、自然とそこに集まってくる人々の感性や志向が複雑に入り混じってうまれる生の景観なのだ。

人々を「景観」ととらえてしまうことには異論がありますが、確かに、街は「行政、才能に恵まれたひとりの建築家やアーティスト」によって造られるものでも、また、造れるものでもないと思います。そして、街の面白さは、彼女たちがおっしゃっているように自然とそこに集まってくる人々の感性や志向が複雑に入り混じってうまれるものです。だから、行政や大きな企業が面的に開発する街は平板でどこも金太郎飴です。だから

最後の仕上げは、そこに集う人々の存在だ。

このことを忘れると街は賑わいを失うし、巨大な瓦礫と化してしまいます。個人の自営が元気でない街の賑わいは短命に終わるというわけです。
そして最後の仕上げは、そこに集う人々の存在だという事実がある限り、経済的な意味においても「個人」という小さな存在にも行政や大きな企業に負けない存在感があるということです。今は逆を行くようなご時世ですが、これからの大規模再開発やファスト風土が辿っていく運命が「今は逆を行く」を衆目の下に晒していきます。

このインフレな状況の中、個人で店舗を経営していくことは生半なことではありません。でも「自由」の源泉はここにあるのかもしれません。
給与所得者な生き方も楽ではありませんし、組織と一蓮托生。明日いらないといわれれば、それまでというご時世でもあります。僕が高校生だった頃に比較すれば、会社員などの給与所得者も、ずいぶんと不確実なものになりました。

自営ってどんな生き方なのか…ちょっと視野に入れてみてもいいんじゃないかと思います。

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