みな腕を頭上に伸ばして

昭和20(1945)年5月29日の横浜大空襲。当日はまず、東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校(今でいう小学校)の5ヶ所を定点に定めて襲撃し、その定点から延焼した「火の壁」で海との間に人々を挟み込み、囲い込む作戦で爆撃が行われました。よって、特に被害がひどかったのは定点の近くの一帯でした。
東神奈川駅から燃え上がった火は、海からの風にあおられて、西側の東急東白楽駅周辺、南西側の同じく反町駅周辺に燃え広がりました。火は、丘を駆け上ることは少なく、横へ横へと広がっていきます。それ故、反町の火災は現在でいえば国道1号線沿いを内陸へと被害を拡大し、距離的には至近でも現在の横浜駅方向に向かって丘を登っていくかたちになる高島台にはあまり被害を与えなかったということがありました。

kami-tanmachi この写真は反町から高島台へ続く細い階段の側面壁です。昭和20(1945)年5月29日には、ここで折り重なるようにたくさんの人が亡くなっていたそうです。一酸化炭素中毒で亡くなられたのか、ご遺体はみなきれいだったそうです。この階段を登り終えると数メートルの道路を挟んで、その向こうは高島台です。今は住宅が立ち並んでいますが、当時はとあるお屋敷の裾野に広がる、ゆるやかな緑の斜面だったはずです。その斜面を目指しておられたんでしょう。みな腕を頭上に伸ばして倒れていらっしゃったそうです。

今は、この階段も幅を拡張して、この周辺にお住いの方が反町駅に向かう生活道路の一部になっています。ただ、そうやって、当時を記憶するものがすべて失われていく中で、この側面壁が残ったのか不思議な気もします。

これが、彼らの命の記憶なのかもしれませんね。
僕は、ここを通るたび、あの日、ここでご遺体の整理にあたった中学生だった方にうかがった話しを思い出しています。

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