ヨコハマのリアル

リハビリ散歩、このブログを始める前はヨコハマの南部を中心に歩いていました。当時暮らしていた「埋め地」からは「道行き」として歩きやすかったということもありましたし、南部にある高校に通っていたので、多少は「知った土地だった」ということもありました。住まいを北部の丘陵に移して、北部と西部を歩き、ヨコハマ都心を中心にいうと東部は海ですから、ざっとですが市域全域を歩いてみたことになります(あれから8年です)。

ヨコハマには「港」なイメージがありますが、全行政区=18区のうち、海に接しているのは、鶴見区、神奈川区、西区、中区、磯子区、金沢区の6区だけです。実際に歩いてみると、大半のヨコハマに「港」の息吹を感じるのは難しく、もちろん海を観ることも出来ません。海に接している行政区でも区域の中で「港」の雰囲気を感じられるところはごく一部です。

僕は「港」近くに育ちましたし、公立の学校でしたので「ヨコハマといえば港」という教育を受けてきました。学校で事あるごとに歌わされた「横浜市歌」も「されば港の数多かれど 此横濱に優るあらめや」という歌詞を含む「港」を讃える歌です。

でも、実際に市域を歩いてみると、「とってつけた」感があるのは、むしろ「横浜港」の方であることがよくわかります。

中区や西区の港至近な地域以外には中世以前からの豊かな歴史があります。でも160年ほど前に、当時の為政者によって、なんの前歴もない、故に築港するに適地でもないところに、貿易利権のためだけに「港」が開かれた。しかし、その「港」が、一時期は、この国の総貿易額の85%を占め「この金のなる木」になり、そして、本来の横浜に流れていた「豊かな歴史」時間を破壊していったのでしょう。

歩きながら、そんなふうに考えるようになりました。

古代から人々の海上往来の自然な流れに即して港町として栄えてきた「神奈川」は、江戸幕府が正式に宿場として整備する以前からの賑わいもあり、東海道以外にもいくつかの街道の接点となって町です(それ故に開港時には各主要国もここに領事館を開いたわけです)。現在の横浜港の南に位置する「本牧」も、中世には船の修理をする機能を備えた、それなりに立派な「港町」でした。

そうした「自然な人の往来」を無視(あるいは避けるように)して、完全無欠の「人工物」として築港されたのが、現在の横浜港であり、その港を讃えているのがヨコハマの「公」だというわけです。

船から見た景色がヨコハマの表玄関となるように計画され、高度成長期以降、ヨコハマのお役所が好んだ「景観行政」も、この街を訪れる人々向けの「外面に化粧する」ような作業だったと思います。
僕は中区の港近くに過ごしましたが、等身大のヨコハマは、そういった「アーバン・デザイン」とは無縁なドブ臭い下世話な街並み。ヨコハマ市民は、「景観行政」にも支弁される税金を支払いながら、敗戦後には占領軍の追い立てにもあいながら、裏口に群がって暮らしていたというわけです。

というわけで、この街が「住みたい街ランキング」の上位にランキングされるたびに、この街の実像は見えてないなと思います。

いつの日にか、景観や、映画、TVドラマ、雑誌でのパブリシティなどによる「おしゃれでエキゾチックなヨコハマ」イメージが払拭されることを願っています。

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