ちゃんと/まじめに/知らない/解らない

昭和19(1944)年…敗戦の前年

青木宏一郎さんの著作「軍国昭和 東京庶民の楽しみ」(中央公論社 刊)には、毎日新聞社から提供された写真に「食糧不足を補うため、南瓜作りを奨励して二重橋前を行進する女子学生の宣伝挺身隊」というキャプションが添えられた写真が掲載されています。昭和19年5月に撮影された写真だそうです。でも「南瓜をつくりませう」と書かれた横断幕を掲げて行進する女子学生たちから、この半年後には東京への空襲が本格化し、以後、敗戦までに東京だけでも106回の空襲が繰り返され、10ヶ月後には、あの東京大空襲で10万人以上の犠牲者を出し下町一帯が灰燼に帰す事実があったことをうかがい知ることはできません。写真には大勢の女子学生たちが写し出されていますが、このうちの一人二人では済まない方が、半年後から順番に空襲の犠牲になっている可能性が高いのです。

同じページに、各地の商店街では《空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する》=建物疎開が始まっており、開けている店も物資不足で開けていても閉店も同じだという記載がありますが、一方で劇場や映画館が集中する浅草は盛況であり、当時は後楽園(球場)で行われていた「大相撲夏場所」初日には5万人のスタンドに入りきれない観衆が押し寄せたとあります。もちろん、この盛況は、青木さんがおっしゃるとおり、旅行制限が徹底されるなど「レジャーが少なくなった」こともあるでしょうが(繰り返しますが)半年後には、大規模な空襲が始まるのです。

東京の人口は昭和19年には727万人強、それがたったの1年で348万人と半減します。もちろん、疎開というかたちで東京をあとにされた方も少なくありません。でも3月10日の大空襲では一晩で10万人以上の方が亡くなります。

「ちゃんと」「まじめに」政府方針や世間に従うことの恐ろしさ…「知らない」「解らない」ことの恐ろしさを思います。もちろん政府の指導も充てにはならないことは火を見るよりも明らかです。

たぶん、現在の政府関係者に公式見解を求めたら「現在の政府にそのようなことはない」というのだと思います。でも、あのとき、玉砕戦の実態を知らず、連合艦隊の実情を知らなかった日本人と現在の僕らが置かれている状況に明確な違いがある論理的な証拠はありません。

昭和19(1944)年の5月から10ヶ月後、東京大空襲があった昭和20年の3月には、沖縄でアメリカ軍の上陸作戦が始まります。

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