永遠のものだとは思わないこと

僕らは、阪神・淡路大震災以降、度重なる災害に遭遇する中で、不動のものにも思える僕らの「日常」が薄氷の上にある脆いものであることを「同時代の体験」として思い知らされててきました。自治体も政府も怠慢であるわけではなく、それなりに責務は果たしている。民間に自律的な支援の萌芽もある…それなのに被災者の生活は日常を取り戻すには遠く、東日本大震災だけでなく、すでに発生から20年以上を経過した阪神・淡路大震災の復興もインフラや建物の復興に留まり、地場産業や地域コミュニティの「健常」を取り戻すには、まだまだ遠い道のりが残されています。

でも、まさか、この大災害と同じような状況が全国津々浦々に満遍なく、それも「実際の大災害」もなく蔓延すると想定している人は少ないでしょう。少なくとも市井ではそうなのだと思います。

昭和19(1944)年の終わり。「日本が負ける」を想定できていた当時の日本人はどれだけいるでしょう。
すでに前年の3月にはガダルカナル島の玉砕戦はあり、4月には山本五十六大将が戦死し。6月には日比谷公園でハデな国葬が執り行われています。政府組織や大企業の統合も目まぐるしく、マスコミは統制されていたとしても、追い込まれていたのはなんとなくわかっていたはずです。昭和19(1944)年の1月には東京や名古屋で建物疎開(空襲被害軽減のために、民間の建物をあらかじめ破壊しておくこと)も始まります。3月には宝塚歌劇団が休演。SKD(松竹歌劇団)は解散しています。
昭和7(1937)年の上海事変(第一次)の頃には大陸での勝ち戦が、明らかに好況をもたらしていましたから、市井にいても戦況が思わしくないことは実感できていたと思います。事実、縁故で疎開できる人たちは、一斉に大都会を離れ始めます。

でも、どこまで日本の敗戦を想定できていたんでしょう。「負ける」と思っていた人がどれくらいいたのか…

もちろん、あの時は戦争で、今はどこかの国と戦争状態担っているわけではありません。ただ、街じゅうにコイン駐車場は「現在進行形」で広がり続けているのに、さらにショッピング・モールや高層のビジネス・ビルを建築し、東京都心でも4軒に1軒が空き家なのに、高層マンションを建設する…少子高齢化の時代に、こうした政策を打ち出していることで、この国の都市は、あの頃、空襲に見舞われたように瓦礫と空き地になるんだと思います。現在の国家財政の状況や金融政策を鑑みるに、僕らは、敗戦直後のように(少なくともいっときは)ハイパー・インフレに死ぬ思いをさせられるのでしょう。マニュアル・レーバーでしか働けない就業者も、あの頃、アメリカの治世についていけなかった人々のように苦しむでしょう。
わが家も大変だったようです。空襲被害は軽微でしたが、父方は長男(叔父貴)を戦場で失っていました。母方のひいばあちゃんはとにかく「いつ死んでもおかしくなかった」と、しばしばあの頃を振り返っていました。

また、同じことを繰り返したら、叔父貴やひいばあちゃんに申し訳ないと思います。
故に、できるだけ敏感に状況を読みながら、対策を考えて準備をしておきたいと思っています。

もちろん、政府や自治体は自分たちが潰れるとは思っていませんから、彼らがなんらかの処方箋を示し、ノウハウを提供してくれるわけではありません。ただただセルフ・サービスの手探りです。でも、震災のために「非常用品」を用意するように、政府や自治体が機能しなくなった上で、上手く時代についていけない就業者が大半であろうマーケットでどうやって食っていくのか…構想しておくだけでもずいぶん違うと思うのです。

「備えあれば憂いなし」「地震は忘れた頃にやってくる」です。少なくとも、高度成長期以降、安定的に来たこの国の社会システムが永遠のものだとは思わないことだと思います。

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