観察対象があるということ

僕は再開発で働いているし、芸術学を専攻していたので、建築と哲学とに否定的な考えを持っているというと、意外な顔をされます。

でも、僕にとって「空間」は二の次で、関心は「場所」性にあります。哲学をするということは、自分に閉じこもって沈思黙考、「私」の暴走の原動力になってしまう可能性が高い。故に、常に観察対象がある社会学や行動経済学などに興味があり、哲学、思想には否定的というより、危険性すら感じてしまっています。

そもそも、人間が、人間の脳内に描かれたイメージを、何の疑いもなく「現実のものにしていくこと」に「うすきみわるさ」や「悍ましさ」を感じていましたから、例えば、豊かな里山を、なんの躊躇もなく「人間の造った空間」につくりかえて笑顔でいる人間に、ある種の気持ち悪さを感じ、その源泉を建築学や、さらに遡れば哲学などに見てしまう思いがしているのです。

かくいう僕も、ちょっと前まで「笑顔でいる人間」の側にいました。
そうしている自分に違和感を感じないでもなかったのですが、うまく整理がつきませんでした。

でも、原発事故が起こりました。原発は発電所であるだけに「核」を敵に向けて開発する兵器に利用しようという発想で造られたものよりも悍ましいものです。原発というものを発想すること、その原発について無頓着でいる人が市井のスタンダードだということは背筋が寒くなることでもあります。

そして、僕は、人間が人間の脳内に留まって何かをイメージし、そのイメージを現実のもににしようとすることの全体、そのプロセスからして、全てが怖くなってしまったのです。

模型を眺めながら、再開発地の論議をしているときに、そこに働き、住み、学び、訪れる20万人を等身大で想像できる人はひとりもいないでしょう。でも、そうした市井でつくられる都市空間が(現場では)強烈なビル風となって等身大の人々を襲うのです。
雨宮まみさんがおっしゃる「大学生ぐらいに見える若いカップルの男のほうが、マクドナルドでクーポンを出して、チキンナゲットが割引になるか訊いている。ならないと知ると、彼はナゲットを注文するのをやめた。彼女の腕には。ルイ・ヴィトンのヴェルニの新色のバッグが堤がっている。」(雨宮さんの著作「東京を生きる」より)というチグハグさも、現実と人間の脳内の乖離に無頓着になっている僕らを象徴する出来事でしょう。

ただただ脳内に展開する論理ってなんなんだろうと思います。

脳内で展開されて、ある種の結論が得られたとして、それで感心してしまっていいものなのかどうか。僕はそのあたりに疑問を持って、そこから離れ、常に観察対象を考察することから始まろうとする「社会学」に興味を持つようになりました。

社会学は20世紀に入ってからの若い学問ですから、科学というよりアートなんじゃないのという意見もあります。でも、その「科学」だって似たり寄ったりなのは前に述べさせていただいたとおりです。
ただ、観察対象があるのか、ひたすら自分の中に考え込んでいくのかは大違いであるように思います。

僕らの行動の大部分が「無意識に拠る」と聞けば尚のこと、そう思っている今日この頃です。

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