仮説であるということ

もう10年くらい前になりますが、竹内薫(物理学者)さんは「99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」という著作を発表されました(光文社新書)。概ね言って「定理のように語られていることも、そのほとんどが『仮説』だ」というような内容が記された本です。

「99.9%」かどうかはともかく、自然科学でも人文科学でも、巷ではあたかも「定理」のように思われていることも「誰かの仮説」に過ぎないことが多く、実際、学会で「定理」的に扱われていることも「こなんじゃないかな」という仮説に「今のところ、有効な反論がでていない」だけで、誰もが納得する定理になってはいなかったりすることが多いものです。
芸術学でも、ある絵画が修復され漆黒に塗りつぶされていたと思われていたと思われていた背景から「見事な景観」が出てきてしまい。「漆黒」を前提に語られていた解釈をめぐっての論争が一晩で吹き飛んでしまったとがあります。
様々な統計手法も社会などを描写する確実な方法と思われがちですが、それも統計学者が仮説したモデルに基づいて展開されているもので、その描写力もいずれも「印象派の絵画」程度のもので「写真」ほども正確な描写力を持つものではありません。そういう意味では、まだまだ発展途上…定理的なものではありません。

だいたい「起承転結」的な論理のまとめ方にしてもリアルなものではありません。TVドラマでもない限り、現実というのは「起起起起」だったり「起→結」だったり「起承転転転」だったりするもので、どんな思想も社会を「自分が考案した(仮説した)モデル」で語ろうとしているものです。

以下のようなテストの問題があったとします。

120℃の水100gに砂糖を溶かすと砂糖の飽和溶液の濃度は何%になるか。また、この砂糖水の温度が0℃まで下がると何g溶けきれなくなるのか。
ただし、水100gに対する砂糖の溶解度は0℃で180g、20℃で204g、100℃で487gとして計算すること。

この「ただし」以下の部分が「モデル化」ということになります。つまり、リアルな状況では一定の値が得られないので、現実に当てはめると問題が解けなくなるということです。人文科学でも同様です。ある人は「人間は考える葦である」というモデルを仮説したし、「最大多数の最大幸福」というモデルを提案した人もいます。かのマルクスさんとトマ・ピケティさんは「起承転」までがほぼ同じプロセスなのに、正反対の結論を仮説しました。

アーティストが述べる社会観もそうですが、学者さんたちの見解も「ある仮説」だと思って聞く必要があり、人類全体として、まだ地球のことも人間のこともよく解っていないのだということを肝に命じておく必要があるのでしょう。その上で多くの仮説を知ることは有意義なことだと思います。

とにかく「共感」できるからといって、それが定理であるとは思わないことでしょう。そして、こうした状態にある人間が「原発」などに手を出さぬことだと思います。人間は「ただし」という前提条件をつけなければ計算ができず、現実の現象に「ただし」をつけることは不可能なのです。

人間なんて大したことないことを知るべきです。

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