あれから

脳出血で倒れたのは震災のちょうど1年前でした(3月10日)。
震災当時は車椅子からは離れられていたものの、右脚を引きずりながら歩いていました。あちこちで筋膜の癒着も起こっていましたし、視床をやられていたので、痛みと不快感のオンパレード。右側のどこを触られても火傷のようにヒリヒリしました。複視は現在よりもはるかに激しく、概ねは物が二重に見えていました。

2011年の3月11日は、それでも出席しなければならない会議があって、某湾岸の高層棟の会議室にいました。
会議中、激しい揺れに遭って、僕以外の出席者は机の下に隠れ、落ち着いてきてから、みんなには先に行ってくれと頼んで、ひとりになってゆっくりと階段を降りきました。ビルはまだときどき不気味に揺れていました。街路にはここにもこんなに人がいるのかと思うほどの人たちが立ち尽くしていました。僕はまだ四六時中クラクラしていたので、地震の揺れも恐怖としては体感しておらず、彼らの間を縫って家路につきました。

あの状態で歩いて家に帰るのは、それなりにシンドかったんですが、僕に起こったのはそれだけのことでした。家に帰り着いてみると、当時は埋め地に住んでいたせいか書棚は壊滅でしたが、奥さんは無事でした。

それにしても、自分の体調があまりに悪すぎて、僕は震災を受け止めることができずにいたように思います。

shinsaiそうした中、コンビニの棚から商品が亡くなり、節電が呼びかけられて、エスカレーター、エレベーター、噴水や街路の流水が止められ、照明が落とされる…
でも、回復にはそれしかありませんでしたからリハビリ散歩を続けていると、ある日、大半の店がすでに退店していたJR桜木町駅近くの地下街でひっそりと営業を続けていた小さなパチンコ(スロット)店の店先に節電を呼びかけるビラが貼ってあるのに気がつきました。

「ああ、こんな場末にまで」と

たぶん、ここで初めて、僕はこの「大災害」の、その規模の大きさに愕然としたんだと思います。先ほど申し上げたように、複視はひどかったんですが、それから、ようやく資料を集め、You Tubeなどに映像をあたり、震災を知る作業を始めました。それは今も続けています。

なぜ、あんなにもたくさんの方が亡くなられて、家族を失って、家や仕事を失って、僕はなぜ、重篤な脳出血でも死ななかったのか、仕事を失わなかったのか…そして、実際に現在進行形で人が亡くなっていっているのに、それを映像で観ている僕には(多少の不自由はあっても)さしてかわらぬ日常生活があるのか。

この非情さ、不条理はなんなのか…

どんなに資料を集めてもLPGのなかの戦場にいるような「実感のなさ」を埋めることはできませんが、この非情さ、不条理さを考えることだけは続けています。

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