ミーティングハウス2号作戦

1945(昭和20)年3月9日深夜(3月10日午前0時少しすぎ)から米軍のミーティングハウス2号作戦は始められました。
現在の江東区、墨田区、台東区、中央区の一部に定点を置き、その4点を四角に結んで、その中を油脂焼い弾で焼き尽くす…公式に発表されているだけで死者8万4千人近く、重傷者を含む負傷者が4万人以上、被災者は100万人以上になり、両親を失った戦災孤児たちも多数出て、彼らには敗戦後にも筆舌に尽くしがたい艱難辛苦を強いることになります。

kikukawa-bashi1写真は現在の菊川橋(墨田区)です。元禄期には、すでに大横川に架橋されていた橋です。1945年当時は関東大震災の復興事業で鋼鉄製の橋がかけられていました。橋幅22m、長さ38.4m。1988(昭和63)年に架け替えられた現在の橋と同じ大きさです。
ミーティングハウス2号作戦のとき、この橋の上だけで3千人の方が亡くなられました。このあたりは、この大横川、竪川、小名木川、そして隅田川など四方を川に囲まれた地域です。そこに焼夷弾が投下されあたりは一面の火の海。橋は人々が殺到するポイントになりました。
橋幅22m、長さ38.4m は、テレビでよく観るオリンピック・サイズの競技用プールの3分の2ほどの大きさです。その大きさの橋の上に3千人分のご遺体があった…その日の地獄を思わざるを得ません。

kikukawa-bashi2このあたりは木場に近く、今も材木商の倉庫があります。小さな町工場も多かった。燃え盛る材木が人々の上に覆いかぶさってきたといいます。こちらも火の海だから橋に逃げてきたのに対岸も火の海。人々は次々に立ち往生し、橋上に押し込められる…たまらず川に飛び込んだ人もおられましたが、まだ3月の冷たい川に、その多くが凍死されました。

この近くには菊川国民学校もありました。周囲では数少ないコンクリート製の建物。こちらにも非難されてきた方が殺到しました。
しかし、講堂の屋根が焼け落ち、やはり多くの人々が亡くなられました。
1983(昭和58)年12月。菊川公園の配水管埋工事現場で、戦災遺骨と思われる遺骨が発見されています。恐らくは3月10日に菊川周辺で亡くなり、菊川公園に仮埋葬された人のものだろうといわれていますが、菊川公園という小さな児童公園に仮埋葬されたご遺体はわかっているだけで4515体にのぼります。

ミーティングハウス2号作戦

作戦の遂行上、致し方のない慣例なのかもしれませんが、無辜の市民を焼き殺しに行くのに「ミーティングハウス」かと思います。つくづく人間は恐ろしい道具を持った獣だと思いもします。

低空での攻撃を命じられた攻撃軍の若者たちは恐ろしさに震え、人の肉が焼ける臭いに機上で吐いていたそうです。

獣なのは、この攻撃を立案し、命じた司令官たち。そして為政者たち。
逃げるなと命じていた、この国の為政者たちなのでしょう。

(同じ頃、うちの叔父貴は北の海で戦死しています。その獣たちに命を差し出すしかなかったのでしょう)

そういう時代が二度と来ることがないよう、心から祈ります。

ちなみに、このミーティングハウス2号作戦の司令官=カーチス・ルメイに、戦後の日本は勲一等旭日大綬章というたいへんに重い叙勲をしています。当時の首相は佐藤栄作氏。安倍さんのおじいちゃんの実の弟さんです。勲一等は天皇陛下の親授が通例ですが、昭和天皇は、これを親授されてはいません。

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