そのあたりをもう一度

「ゆとり世代」という単語を目にする機会がまた増えてきたように思います。1961年生まれの僕は「新人類」と呼ばれました。「画一化社会に迎合し(つまり反抗もせず)無気力な若者」を皮肉っぽく「新人類」といったのだそうです。
僕がいわゆる現役生のとき、現在の「大学入試センター試験」につながる「大学共通第一次学力試験」=「共通一次」が始まりました。この「共通」な感じが「画一化社会」のイメージに連なるのでしょう。当時隆盛だったセゾンも「新人類」イメージの構築に一役買っていました。「ゆとり世代」が、この世に誕生した頃の話しです。

僕にしてみれば、大学生みんなで学生運動っていうんだって充分「画一化」な感じがします。なにも「画一化」は「新人類」に特筆的なことではなく、工業生産時代の教育で育てられた世代には共通したことに思えます。なにしろ、工業生産時代の教育の真髄は「人」を均質な部品に仕立てることですからね。

ゆとり、さとり、新人類、団塊の世代…

他者からの評価はどうあれ、確かに行政から施された画一的な教育の枠組みに収まってしまう自分は嫌ですね。
…どういったらいいのかな。左派にも右派にも属さないと「変人」っていわれちゃったりしますが、そういう感じを大切にしたいというか。

「みんな」を希求すると、結局、同級生になり、同世代になってしまう…でも、そのこと自体が、もう策にはめられてしまっているように思います。だって「同じ年齢」に共通項を見出すなんでホントは変でしょ。ライフ・コンセプトやライフ・デザインを基準にするなら年齢は関係ないはずですもんね。

フダンは気にもしてみないこと…そのあたりをもう一度、考えてみてもいいのかもしれませんね。

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