庶民のための学校教育

工業生産時代の学校教育は、自分の分担をしっかりとこなすことと、同じ工場で働く資金な仲間たちの労務上の協調性を積極的に教えます。

それに比較すれば、子どもたちに、草や木、昆虫たちや、自分をとりかこむ環境について関心を持たせようとすることについての努力は副次的です。社会や世間という環境について興味を持つことは、半ば放置された状態です。ホントは学校で「人間関係」や「世渡り」のコツを教えたっていいわけですが、そういうことは学校教育の範疇には入っていない感じです。

でも、親たちは、そんな学校に子どもたちの育成を委ねっぱなしです。

それ故、ヘタすればいじめの対象になるというリスクを抱えながら、子どもたちは「人間関係」や「世渡り」を自習していくというわけです。

まだ「ジモト」がある子どもは幸せなのかもしれなし、「ジモト」があるが故にそこに馴染めなかった子どもは逆にシンドイのかもしれない。なにしろ核家族が標準になった今こそ、子どもたちにとって「わが家」の外は酸素ボンベのない宇宙遊泳だともいえるわけです。

なんだか、庶民にとって、重要度の高いと思われることこそ門外に置かれているのが現状の学校教育だっていう気がしなくもありません。「ゆとり」のあるなしではなく「軸」ごとズレているように思います。
僕などは、中学や高校で習った数学や物理、化学などの教科の中で、一応は大学院を修了した55歳になった今も、その必要性が理解できないこともたくさんありますし、なんで現代史はほとんど教えないんだろうということなど、疑問に思うこともたくさんあります(もちろん、大人の力学が働いていることは推測できますが)。

やっぱり「お役所」任せだからいけないんでしょう。ここでも期待されるのは「私立の公共政策」です。
もちろん生半なことではありませんが、こういうところをしっかりしていかないと
僕らの人生、彼らに翻弄されっぱなしになります。

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