1977年のこと

きょうは、荏田(横浜市青葉区)あたりを歩いて中川(横浜市都筑区)方面に向かうというコースをとりました。

あまりに惨すぎて触れたくないことでもあり、荏田にいて無視というのも忍びなく、少しだけ書かせていただくことにします。

boshi-zouあれは1977(昭和52)年のことでした。厚木基地を飛び立った米軍機が、緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落しました。パイロットは脱出。無人のファントム機でした。確かに現在に比較すれば「造成中」の感があったものの、墜落機は6軒の家を焼きつくし9名が負傷。その中に3歳と1歳の男の子と彼らのお母さん、ご主人の妹さんがいました。4人の火傷は最もひどい “全身熱傷3度”の状態。男の子たちの火傷は体表面積の100%に達していました。パイロットのパラシュートは緑区鴨志田に着地。連絡を受けた海上自衛隊の救難ヘリは無傷に近い二人のパイロットだけを助け、墜落現場に向かうことはありませんでした。

残念ながら男の子二人はほどなくお亡くなりになりました。でも、お母さんにはそのことについて1年以上も知らされず、子どもたちに会いたい一心で辛い治療に耐え続けます。お子さんの死を知ってからは精神的な苦しみも重なり、事故から4年ほど後、心因性の呼吸困難で31歳の生涯を閉じられました。

1歳の男の子は「鳩ぽっぽ」を歌いながら亡くなったそうです。

もう40年近くも前のことですが、戦後30年もたっていた当時のヨコハマではまだ戦争が続いていました。
今、フランス山公園に、お母さんたちのメモリアルのブロンズ像が設置されています。ご遺族から贈られたこの像に、当初、横浜市役所は「詞書」の設置を拒否しましたが、今は以下のような碑文が添えられています。

昭和52(1977)年9月27日、横浜市荏田町(横浜市青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、市民3人(母と幼い子二人)が亡くなりました。
生前に海が見たいと願っていたことから、この公園に愛の母子像の寄付を受け設置したものです。

僕は、この街の市民です。選挙で投票もしています。その自分を省みても切なくなります。

1977年のこと」への2件のフィードバック

  1. Sachie の発言:

    このことはよく覚えています。その後、ご遺族の方が出された本も読みました。今思い出しても、納得できないことばかりです。他人の私でさえそうなのですから、残されたご家族はどんな思いだったかと想像することさえできません。

    • 忍びないの一言に尽きますね。この国の国民で、この市の市民であることが嫌になる瞬間でもあります。ただただ悲しいです。

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