友だち

イマドキの都市で、空間を共有することを根拠にコミュニティをつくろうとすると、返って喧騒の種を蒔くことになってしまいます。地縁のない「よそ者」どうし、職縁もない「裸の個性」を「お隣さん」だからと「仲良し」に仕立てるのは、いかにも無理があること。よくて群雄割拠。コミュニティを明確にしたからこその敵対関係を生み出したりもします。
でも、再開発でできた新しいマンションにも未だに「空間」を単位に自治組織を設けます。熱心な店もそうでない店もあるだろう商店街も「空間」が単位。消費者に対する態度は問わずに「近隣であること」が商店会会員になれるかどうかの根拠。消費者は置き去りです。

そして、自治体も「空間」が単位。ずっと以前のことですが、僕の友人はヨコハマの端っこに暮らしていて、川崎のゴミ収集は「毎日」だからと徒歩1分の川崎市にゴミ出しをしていました。決して褒められた話ではありませんが「空間」が単位の自治体施策の皮肉です。

何事も「空間」共有からしか考えないのは、たぶん自治体が「空間」共有を寄る辺にしているから。少なくとも正当な合理性はありません。

現実の世の中を生きている僕らは、やはり「気の合う」どうし、つまりライフ・コンセプトが「似た者どうし」を「集まり」の根拠にした方が良いでしょう。「楽して儲ける」をライフ・コンセプトにしている人と「真摯な働き者。ハタを楽にさせるから働く」なんていってる人が同じグループでは啀み合いで日が暮れてしまいます。

うちのひばあちゃんは暮らしの中で知り合った「友だち」を頼りにし、やがて近隣に暮らすようになって、その「友だち」たちの子どもや孫たちともずっと同じご町内で暮らして一生を終えました。「空間」の共有が先ではなく、あくまでも気があう友だちかどうか…

その友だちの一人に「藤岡のおばあ」という人がいましたが、その「藤岡」は苗字ではなく「群馬県の藤岡市からでてきた人だから」だということを、僕はずいぶん後になってから知りました。

大都会に暮らす「よそ者」は友だちを寄る辺とする…

ひいばあちゃん、読み書きはできませんでしたが、言うことやること。だいたい正解でしたからね。

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