神奈川

横浜市神奈川区。港都ヨコハマ育ちとすれば「北辺の辺境」ギリギリ都心かなというくらいのイメージしかありませんでした。

でも、江戸時代までは、この街こそ港都。北斎の「Great Wave」こと「神奈川沖浪裏」も、広重が「東海道五十三次」の中に描いたのも、この神奈川で、遅くとも南北朝期には、栄えた港町。その頃には「城」もあって、上杉氏、北条氏なんていうメジャーな支配者が押さえていたし、東海道、八王子方面から街道と紀伊半島、伊豆七島あたりからの海運の結節点になっており、船大工などの技能職の集積もあり、もちろん歓楽街もあって、このあたりきっての大都会でした。

家康の鷹狩り用陣屋が置かれていた時期もあり、大藩の出張所が置かれているなど、徳川幕府もずっと神奈川を重視してきました。幕末の開港交渉でも各国公使は、この街の賑わいを知って「神奈川での開港」を主張しましたが、なにごとも囲い込みたかった幕府は「神奈川の沖を開港地にする」と嘘をついて、現在の横浜港あたりを築港。今も旧・神奈川宿あたりのお寺に各国公使館、領事館の跡が残るもの、彼らは「神奈川での開港」を望んでいた名残です。

「横浜港」というフィクションに陰りが見えてくると
ヨコハマは周辺区に「郊外の住宅地」という新しい物語を描き始めます。

僕が高校生だった1970年代。港南区には藁葺きの住宅がまだ「群」で残っていました。それが見事な住宅街になり、それから東急田園都市沿線に象徴される「港北ニュータウン」ができあがりました。農地は残りましたが、人間の科学を盲信したような区画に整理され、住宅街はどこまでも整然と四角に切り取られた土地です。

旧来のごみごみとしたダウンと、急峻な丘陵地、複雑に入り組んだ谷間が面的な開発を阻んだ…都心でも郊外でもない神奈川区には地形上の幸運もありました。

今も、広重が「東海道五十三次」に描いたのと同じ道を可視できる神奈川区には、中世の豪族に連なる「家」が苗字と同じ地名に住み、暮らしていらっしゃいます。

「北辺の辺境」だからこそ「風の谷」なのかも…

イリュージョン・ヨコハマが無視したように触手を伸ばさなかったから、神奈川区には「リアル横浜」が残っているのかもしれません。

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