忘れて踊る

ご承知のように日本時間12月8日未明には真珠湾攻撃ということになった1941(昭和16)年。

1月1日には映画館でニュース映画の上映が義務化されます。1月8日には、あの「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で知られる戦陣訓が通達されます。
でも、初詣の人出は明治神宮で約150万人。浅草、神田明神などでそれぞれ50万人ほど。浅草の映画館や演芸場はその後も盛況で、時節柄と「花見」については自粛が求められても人々のレジャー機運は冷めることなく、上野の不忍池など近場の行楽地は前年以上の人出で、お相撲や野球なども満員御礼の札止の状況になっています。
でも、7月にはアメリカ合衆国にはアメリカ合衆国にある日本資産を、イングランドにはイングランド国内にある日本資産を凍結されて、9月には食肉も配給制へ。米、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油はすでに配給。国民の関心はレジャーより「食うこと」になり、ようやく近場のレジャーも下火になります。

1月には初詣の群衆の中にあって正月気分に浸っていた人たちが数ヶ月後には「食うこと」もままならなくなる…考えさせられるものがあります。

確かに情報は統制されていたんでしょう。当時の彼らにとっては情報源も乏しい…でも、でもなと思うわけです。

12月には開戦から日本軍の快進撃が伝えられると街は再び人々でにぎわい、熱海に滞在していた当時の喜劇王=古川ロッパは12月20日付の日記に「熱海の町の夜は、まるで灯火管制などしていない。熱海銀座はあかあかと明るい」と記し、28日にも東宝劇場の「吉本芸道大会」大入満員の様子が記されています。

でも、これから、たった数年後の1944(昭和19)年の後半にはすでに空襲は激化しており、日本の都市は順番に「焦土」。人々は火炎地獄の中を逃げ惑うことになるわけです。

きょうアリーナで酔いしれてきた僕らが3年後には無人攻撃機の的になっている…それでいいはずはないでしょう。
3年後とはいわないまでも、今がもう「戦前」であることは間違いがないのです。

人を踊らせるだけ踊らせておいて、その人を戦場に送り、兵器工場で使役した挙句に、家を焼き、命までを焼き尽くし、戦後の逃避行やハイパーインフレに人々を苦しめ、たくさんの戦災孤児や残留孤児を生んだ、その張本人たちが戦後に立場を復権させ、今もその系譜に連なる人々は生きて、この国の為政者たちの一角を占めているのです。

僕らはそのことを忘れて踊っているわけにはいきません。

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