タイムラインにさまざまな考え、物事の捉え方が連なり、そして、その残像が残ります。「みんな一緒」が幻想だったことがよくわかります。
この状況で「進め一億火の玉だ」というような一体感を謳うのは不可能でしょう。
急に、そうなったら、なんらかの操作や統制があったことを疑います。
あの頃は可視できなかったし残像も残らなかったから「総動員」を演出できたのでしょう。そうしたことを率先して受け入れた人の方が実は少数だと認識することも困難で、それ故に「非国民」のレッテルを貼られることへの恐ろしさもあったのだと思います。
でも、今は「みんな」が「それぞれ」であることが可視できるのです。記録も残ります。そして、それを国際的に閲覧することが可能です。
もう、昔のようにプレッシャーをかけるのは難しいでしょう。また、新しい手を考えてくるのかもしれませんが「みんな」に怯える必要はないのだと思います。