意味を帯びさせられる前の

ラジオって有難いと思うのは、聞きたくもない楽曲が流れてくることにおいてです。きょうも散歩しながらなんとなく聴いていたラジオで、予期せぬ「山口百恵さんの『秋桜』」に行き当たり、なんでタモリさんが、さださんを評価しないのか、なんとなく判ったような気がして(「秋桜」は、さだまさしさんの作詞、作曲の楽曲)ひとりしてすっきりした顔で歩いていました(たぶん)。

さださんは一幅の絵画か、短編映画のようなビジュアルを創造して、その絵なりビジュアルなりを言語を尽くして説明しようとするわけです。それ故、多分に言語的な世界で、ただの音声としての言葉(言霊とでもいうのでしょうか)の表現としては実は単調です。逆は美空ひばりさんの歌で、言語的に「愛、燦々と」は、やたら抽象的ながら、ひばりさんの唄う「あ」と「い」と「さんさんと」には豊かな「何か」が謳われていて、聴き手には「愛、燦々と」の意味などどうでもよい幸福感、太い豊かさが伝わってきます。

さださんの唄にはその部分がほとんどない…ないのに楽曲はクレシェンドになったりフォルテシモになったり。だからこそ楽曲が盛り上がれば盛り上がるほど、もどかしさも大きくなる。

(山口百恵さんの唄は、その点で、さださんが歌う原曲よりはるかに聴きやすいものでした)

タモリさんは、歌詞のある楽曲に、歌詞の意味ではなく、かつてダダイストがいた時代の音声詩(フンゴ・バルみたいな)みたいに、「あ」とか「い」とか、意味を帯びさせられる前の音たちの説得力を愛でられているんでしょう。僕らも英語の意味をまったく介さないうちに、英語の歌に泣かされそうな気分になったり、体験がないことではりません。

さださんの歌手としてのお力はお力として、僕らは、もっと冷静に、ひばりさんの唄う「あ」と「い」と「さんさんと」みたいなことを評価したほうがいい。

たぶん、タモリさんはそういうことをおっしゃりたかったんだなと思いました。

本屋さんの店頭巡りと同様、ラジオから流れてくる楽曲は僕に有意義な科学変化をもたらしてくれます。

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