とんでもないことが起ころうとしているのに、街はハロウインの賑わいを含んでいたってフツウです。
確かに、僕は決定的には将来を悲観していません。深夜とはいえ「おかしの家」(TBS系)のようなドラマがあんなに豪華な配役でスポンサーがついた上で製作されるのです。もう次の時代は始まっているにだろうし、始めている人もいるのでしょう。
でも、陣痛は陣痛ゆえに、それはそれは険しいものです。平和な時代しか知らない世代には「この世の終わり」にも思えるものでしょう。
そう思うからこそ、この平穏さに狐につままれたような気分にもなります。
それに…
なにより、自分の見通しが間違っているのかなと自信がなくなったりもしています。
半世紀以上、お役人と付き合ってきて再開発事業にもそれなりにコミットし、一応は大学院に行って確認もしてみた結果なのですが、そこでシミュレートした近未来の像がおぞましいものであれば、おぞまいいものであるほど、街場の享楽ぶりに、そのシミュレートを疑りたくもなります。
でも、東京大空襲を前に、あのとき多くの庶民はやっぱり無防備だったのだと思います。そして、自分の生活圏からは遠いところで起こっている様々な出来事(度重なる負戦など)を知りませんでした。積極的に関心を寄せることもありませんでした。
今日を生きる僕らだって、今、福島の原発事故の後処理がどのようになっているかを知らず、首都圏に暮らしていれば被災地の現状も知らず、たいていの場合、行政の財政状況も掌握できず、お役人の技量をはかることもできません。団塊の世代が一気に後期高齢者へとなる社会的なインパクトも想像できません。
たぶん、逃げ惑うのは焼夷弾が降ってきてからです。
でも、少数ですが、あのとき東京各地が空襲される前に、疎開して難を逃れた人もいたということは覚えておいた方がよいのだと思います。
生死を分けたのは、お金のあるなしではなく、独自の判断力を持ち合わせていたかどうか。コツコツと準備ができていたかどうか…。イソップの寓話「アリとキリギリス」に似たような話です。