明らかに「みんな」で集まっていることに、ある種の快感や落ち着きを見出す人々がいます。
自分についても、その「みんな」の評価軸を起点にする…「どう見られるか」「どう思われるか」に終始する…なにごとも「みんな」からというわけです。
「みんな」の中では目立ちたいが「みんな」からはみ出るのは嫌。
そして、時代の変化は感じつつも、水戸黄門が来てくれるのを「みんな」と一緒に待っています。その方が生き方としてスマートだと思っているのでしょう。冷静に「みんな」の動向をうかがってもいます。
工業生産時代が終わったばかりか、終了直前の時代ですから、民主主義はこうした人たちのためにあるようなものです。安倍さんたちの欲する「全体主義」は、すでに半分は完成しているも同然というわけです。
でも、彼らは「工業生産型にして人件費は高い」という人材に過ぎません。情報の消費者にはなれても生産者にはなれないのです。大勢を従えて、安倍さんたちは彼らを食わしていかなければなりません。みな扶養家族です。
ひとつはかつての満蒙開拓団のような「口減し」政策でしょう。そして「戦争」です。「みんな」を養う分をどこかから「分捕って」くるというわけです。
ただ、この方法論。まさに命がけの大博打であることは言うまでもありません。もちろん、成功しても非・人道の極みです。
でも、止めませんね。解っていて、この方向にアクセルを吹かしている人がいるんでしょう。
そして僕らは盲目。もう少し勉強しなきゃいけませんし、水戸黄門の怖さも知らなければなりません。
また「後悔先に立たず」を繰り返して、ようやく勉強を始めるのでしょう。