国家という物語

国家という物語(フィクション)が、確かに人々の安寧に寄与していた時代もあったのだと思います。
でも、「線」でも描かれていない限り「国境」を体感することはほとんど不可能。つまりフィクションです。
ほんの150年ほど前まで、この国でも「国」といえば「故郷」であり、大きくても藩や紀州などの「州」をそう思ったくらいで、現在の「日本」という国家の概念はなく、「私は日本人だ」という意識も希薄でした。

そして「国家」の時代は終わりかけています。

インターネットが国境を溶かし、産業でさえ「多様性」を利用しようとする時代であり、就業者もダイバーシティを求めます。その時代に、今は「『国家』の次の物語」を書かなければならないときです。

ただし、どこの政府も国家というイメージの中に人々を囲い込んで安定を確保してきた時代も短くはないので、その「国家」というイメージの存続が難しくなれば、逆に国粋主義的な、国家の枠組みを従来通りに維持しようとする人々は、その考え方や行動を鮮明にしてきます。

急速に時代の様相が「次」を鮮明にすれば、「これまでを継承したい」という人々はますますその考え方や行動を鮮明にする…

つまり「荒れる」ということです。

これはお母さんになる方の陣痛のようなものでしょう。この痛みなしに次の時代を迎えることはできません。

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