似合う服

与えられたドキュメンタリー。
僕が、この両親から生まれ、死ぬまでは生きること。そして僕は「学校教育」や「マスメディアからの情報」などに、任意に無意識に影響を受け、実は自分ではない「自分の価値観」に影響を受けながら生きてきたし、生きているということ。

そして、親たちも学校教育も「世間」の中で生きていかなければならないことを方向づけてきました。これも与えられたドキュメンタリー。彼らが創ってきたフィクションなんだけれど、僕にとってはドキュメンタリー。だって、僕が創ったフィクションじゃありませんからね。

誰かが企画した「戦争」はフィクションです。政府によってしか「起こせない」んだからドキュメント、リアルが戦争を生み出すわけはありません。
でも、戦場に立たされた兵士にとって、戦争はドキュメントであり、リアルです。実際に苦痛をともなって腑をえぐられ、片足をもがれ、苦しみの中での死を余儀なくされます。

まさに「嘘から出た真」ですが、恐らく、そこには「無意識」が関係しています。

学校教育によって、自分の人生が左右されていることには「無意識」で、戦争を企画する人間に、共食いもする人類という動物の本能が残っていることに「無意識」です。

「無意識」は無意識というだけに、自分で知覚することはできません。自分や社会が生み出したをドキュメント、リアルをつなぎわせて推測するしかありません。
でも、今、対峙している相手は、僕が「無意識」なまま放置している「僕」から僕を評価してくるだろうし
動物の本能に無意識な兵士たちは戦争を複雑化させ、戦争が終わった後の人々の心にも「恨」の感情を残すでしょう。

一方「無意識」なうちにフィクションに絡めとられているから、僕らは戦場に赴き、そこが戦場でなければ友だちになれそうな人々を殺すこともできるわけです。
親に押し付けられた「フィクション」に苦しめられている人もいますし、自分から「ステイタス」というありもしない社会評価に縛られてしまう人もいます。

僕らの一生はフィクションとドキュメンタリーの間に漂うようにあります。
そして「無意識」があることを意識できなければ、ホントウに「フィクションとドキュメンタリー」の間で漂流してしまうでしょう。

まず、できるだけ素直に「自分」を見つめることでしょう。
そして、その自分に無理せず物語を紡いでいく…「着たい服より似合う服」です。

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