少数派でも多数派でも、ただ「自分の主張」を主張するだけなら「これまでどおり」です。
もし自律的に生きていこうとするなら、相応の調整力を持つことが不可欠です。
反対者やめんどうに絡みついてくる相手を上手にさばいて一人の時間をつくる。それも調整の結果です。
孤立させられるのではなく「孤高にいる」というのは調整の結果です。
この、恐ろしく面倒な「調整」という仕事を誰かに依存している限り、自立はあり得ないのでしょう。
国会議事堂前にいる若い世代のみなさんは組織によらずとも整然としていらっしゃいます。たぶん、それぞれに「調整力」をお持ちなんでしょう。
「私立の公共」の始まりを感じます。
(それだけでも、官房長官方が若かった頃より格段の進化でしょう)