「止める」というのは難しいことです。
気持ちはわかります。
どんなに「負け」が見え、犠牲が出ても徹底抗戦しているうちは「負け」ではなく、責任を問われることもなく、恥をかくこともない。そのうち、徹底抗戦していることが努力であるようにも、頑張っていることのようにも思えてくる。
でも、無益な徹底抗戦は、大空襲を呼び込み、原爆投下を呼び込み、各地での玉砕戦や沖縄での市街戦、神風特別攻撃などを現実のものにし、あまりにも多くの人々の命を奪い、ようやく生き残ることができた人々の心に深い傷を残します。
たぶん、東芝という会社も止められなかったんだろうと思います。「チャレンジ」はいつしか無益な徹底抗戦のための挑戦になっていたんでしょう。
そして、こういうことは僕ら個人の人生、そのライフデザインの中にも現れます。
粘っているのか、無断な抵抗をしているのか、本人の感覚としては紙一重です。
劣勢に立たされた時、問われるのは負けの美学です。
でも、たいていは無益な戦いに終始してしまうものです。
たぶん、僕がそうだったんでしょう。だから脳出血に倒れたんだと思います。