学者さんにも、ふたとおりいて
まず…
ずいぶんと資産をお持ちの家に生まれて…なんていうのかな…生まれたときからお金持ちが空気のようで、親御さんも「成りあがり」みたいな経験をしたことがない。だから、当人も、ことさらに「成り上がる」とか「他人を蹴落としてまで」みたいな意気込みもない。そのくせ資金力があるから、ワインから音楽から素養・教養はたっぷり。ちゃんと一般教養の上に専門をの得てる感じの人と
絵画を観るにしてもデータ的に観るか、個人的な好き嫌いで判断するかのどっちかで、感性の痕跡を感性のままに整理して観るということができなくて「いやー。僕、世界史だったから日本史には疎くて」と素養・教養は、もっぱら「学校教育」の範囲内。ひたすら「学校に成績」でのし上がってきた…
そういう人がいます。
そして、そういう人こそ学会で立場を失うと一気に食い扶持を失う感じで、結構、神経使って生きています。
なんか不条理だなーと思うんですが、でも、やっぱり素養・教養は必要なんでしょう。
建築学と構造計算と土木的な技法でつくった街はソリッドな街だし、経済学や社会学の理論どおりにデザインされた社会も、きっとソリッドな社会。学校教育の出世頭だからとお医者さんになった人に「
医は仁術」は無縁ですしね。
たぶん、文化っていうのは、数値や理論と違って自分当代では修められないのかもしれませんね。
例えば「万葉集」の「相聞」ってカテゴリーを掌握するんだって難しい。「こうだ」っていう言葉の定義がなくて「感性」で掴むしかないですもんね。
かといって、主観的な仮説やアートで突っ走られても困ります。当人しかわからない理論でつくられた構造物は、新・国立競技場の大屋根支える巨大なアーチみたいなもんで、道具としては無用の長物。個人的な利用に閉じた小さな住宅ならまだしも、あの規模になると国を傾けます。
あせらなくてもいいんじゃないですかね。
届くところまででいい。
そうしたらね。世の中のギスギス感も少しは緩和されるかもしれませんしね。
とにかく巨人の星を目指さなくてもいいと思うんです。自分より前の世代に世代に蓄積がなければ手を出せない世界には手を出さず
腹八分目で終われる範囲内。それ以上に頑張っても、自分にも社会にもあんまりいいことないと思うんです。
そして、もし余力があったら
生まれる前からハンディを背負わなければならなかった子どもたちを少し手伝うなど…
その方が(楽なだけじゃなく)きっと豊かです。