翌日から

いわゆる横浜大空襲があったのは1945(昭和20)年の5月29日のことです。(今の僕なら)歩いて一周できる横浜都心を爆撃しにやってきたB29は500機以上。P51という戦闘機も100機以上。死者だけで1万人ともいわれる焦土作戦でした。

ただ、その悲惨さを人々が実感するのは翌日のこと。空襲当日は自分の命で精一杯。そもそも、ただただ火の海で人々はパニック状態。何が起こっていたのかも判らなかったでしょう。
うちのひいばあちゃんたちが中村川(元町と中華街との間を流れる運河)にたくさんのご遺体が浮いていたのを目撃したのも、関内あたりには真っ黒になった遺体があちこちに積み上げられていて、その上にトタンが被せられていたのを目撃するのも、翌日になってから、今が昭和20年なら、きょうになってからのことでした。

機銃掃射は5月30日も続いていた…どこにも隠れるところがなくて怖かったそうです。

(うちの親父は厚木基地にいて、この空襲を迎撃していたんだなと思います。そして叔父貴は2ヶ月以上前に戦死していた…あと半年生きていたら戦争終わってたのに)

横浜都心にあって奇跡的に焼夷弾一つで消失を免れた(オフクロの実家がある)ご町内は、食物のない中、焼け出された親戚、友人、知人の受け入れで5月30日からがとんでもないことになり、そして、そのまま敗戦。さらなる大混乱…

(小学生になるかならないかのオフクロにとっては、ここからが戦争だったようです)

空襲は、その当日終わるんじゃないんです。戦争が終わったって続く…だって全財産が燃やされ、家族が焼き殺されて、それでも生きていかなければならないわけですからね。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中