引用

戦争と個人

現在は代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター、NHK放送センターなどとなっている、占領アメリカ軍兵士、軍属たちのための住宅が「ワシントンハイツ」でした。このワシントンハイツについて書かれた秋尾沙戸子さんの著作「ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後」(新潮社)は、たんにワシントンハイツの日常を描写するだけでなく、ここからジャニーズ事務所が始まったことなど「占領される」ということが、この国にどういう化学変化を生じさせたのかなど、立体的に「ワシントンハイツがあったこと」を活写しています。

一方、ヨコハマの本町通り、山下町交差点にシェル石油のビルがありました。竣工は1929(昭和2)年(竣工時はライジングサン石油横浜本社)。今は高層マンションになってしまいましたが、1990(平成2年)に解体されるまで、あの狂乱なバブルの時代にも襟を正したような、いい時代のモダンな感じを冷凍保存したような建物でした。下の写真は1985(昭和60)年に、シェル石油と昭和石油が合併する前年に撮影した建物正面にあった回転ドアです。今も後継のマンションに「回らなくなった回転ドア」が意匠として保存されていますが、なんだか建物の継承保存について鯖を読まれているようで、あまり好きになれません。

shellこの建物の設計者はアントニオ・レーモンドさんとベジドフ・フォイエルシュタインさん。
アントニオ・レーモンドさんはあのフランク・ロイド・ライトさんのお弟子さん。帝国ホテルの設計にも関わっていたという人です。

このレーモンドさんについて「ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後」には、彼が、アメリカ軍による焼夷弾効果実験のための「日本の木造家屋」を設計したと書かれています。ソルトレイクから120キロの砂漠に、トタン屋根と瓦屋根と2種類の住宅群をつくり、建材もでくるだけ日本のヒノキに近いものを使用し、畳も敷いて、室内にはちゃぶ台や洗い桶まで置いた…。国家総動員法の施行以来、日本からの情報が途絶えていたアメリカ軍にとって、日本に造詣の深いレーモンドさんは貴重な存在だったようです。

そして、ライトさんのお弟子さんとして来日したとき、すでにレーモンドさんは予備役ながら軍の諜報部員という肩書きをもっていたことが、アメリカ陸軍の資料に残っているんだそうです。

レーモンドさんは、シェル石油のビルだけでなく後藤新平の自宅、聖心女子学院、東京女子大の礼拝堂などいくつもの「東京の建物」を設計しています。もちろん、日本の建築士に足跡を残された方です。でも、その一方で彼は謎の多い人物でもあり、ひょっとしたら日本と米国のダブル・エージェントだったのではという見方もあります。

レーモンドさんは、1947(昭和23)年、再来日し、日本に設計事務所を開き、1973(昭和48)年まで活動されています。

止むに止まれぬ事情があったのかもしれませんが、レーモンドさんは、東京をつくって、その東京を燃やし、どんな空襲があったかを充分に承知の上で、その空襲からたった3年後には再来日し、また、東京をつくっていた…

早計に結論を出すのは間違いでしょう。でも「戦争に翻弄された」とは言い難い個人がここにいるように思います。

僕は、あの頃、若者たちを戦場に送り出すことに加担した多くの市井の大人たちにも、同じような感慨を持っています。そして、今、この僕が、あのときの大人たちと同じような状況に立たされる可能性が出てきていることも認識ししています。

戦争が遠い彼方にあった時代はすでに過去のものになりつつあります。

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