大都市は大都市

明治維新。ご承知のように新政府や廃藩置県後の地方を治めたお役人として幅を利かせたのは薩摩、長州、土佐、肥前などの各「勝ち組」藩の人々。特に薩摩と長州出身者がさまざまなポジションを占めてゆきました。

でも、江戸幕府は大都市こそ直轄にしてので、彼らは250年以上「都市行政」経験を持っていませんでした。しかも、江戸幕府は中国の「一国二制度」ではありませんが、大都市と農漁村を「全くの別物」として監理していましたから、大都市を知らないお役人たちが入ってきたということは、今日に至る大きな痛手でもありました。知らないが故に彼らは無自覚なままに「農漁村ならフィットするが大都市には不向きな施策」を続けました。

農漁村には、何世代にも渡って定住し近隣も同じ職種の人々が暮らしています。一方、大都市には…居住キャリアも浅く単身者多く含まれ、さらに職縁もバラバラな人たちが近隣に集まって暮らしています。こうした大都市を農漁村と同様の施策でカバーすることはできません。ホントは大都市こそネットワーク型のにつながりを模索していかなければならないのに、今も大都市も農村もなく、どこへいってもコミュニティ施策です。

戦国大名も江戸幕府も、金融や技能、学問・芸術などの情報生産を大都市に集中させ、村方とやや距離をとらせて、町方では「歌舞く」に大らかな施策をとり、そのかわり、福祉や公共工事でさえ民活を主にして自治型の社会をデザインし、その一方で庶民は「無税」。入り口は広くとりました。一方、特に「生類憐みの令」以降、村方はビリにやさしい社会として設計しました。ちょっと息苦しいかもしれないけれど、多くの人が助け合って生きるコミュニティづくりを目指しました。

この一国二制度的社会を破壊し、人々を一色に染めようとした「明治政府以降」の集大成が、前の大戦に至る翼賛体制であり、この体制のデザインを主役として牽引したのがあべさんのおじいちゃん=岸信介氏。そして、安倍さんはこの家流の直系に当たる人です。安倍さんたちとは犬猿の仲の「田中派」な系譜の人たちも選挙区は「非・大都市」。つまり大都市は、明治以降、水遣りもされずに放っておかれた路肩の植物たちのようなものなのです。

この国は、これから、外貨収入の主幹を文化と観光にシフトしていかざるを得ないはず。粒ぞろいが美徳の工業生産時代も終わりました。それなのに、大都市を大都市らしくケアしていく施策は無策に近い…

今もこの国の大都市が経済的な生産力を保ち、人々の生活圏としてなんとか体裁を保っていられるのは、中世から江戸時代にかけて育まれた「大都市の基礎体力」みたいなものがよほどしっかりしているからでしょう。

でも、その貯金を使い果たそうとしています。そして「明治以降」の系譜にある為政者も、多くの専門家たちもそのことに無自覚です。

いつまで、大都市が大都市としてのポテンシャルを保てるのか。少なくとも萌芽や希望といったものは「民間のセルフサービス」に見いだすしかなさそうです。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中