脳出血に倒れて、命をつなぎとめて家族は喜んでいました。でも僕は、とんでもない苦痛の中にいました。
目の奥を鋭い爪でかき回されているような不快感。いくつのできる口内炎。腕を少しひねるだけで走る激痛。右半身が麻痺して動かないだけでなく、そういう具体的な「痛み」もあり、見るものは全て二重で、思うように言葉が紡げず、いわゆる「死んだほうがマシ」という経験をしていました。
共感してもらおうにも、こんなことは経験者でなければわかるものではありません。うちはオヤジもオフクロも脳梗塞のキャリアでしたが、両者とも軽度だったために「右半身の存在が認識できない」みたいな経験はありませんでした。
僕は孤立無援を余儀なくされていました。
そのとき、僕は、僕の人生が少なくとも「僕のため」にあるのではないと考えた方がスジが通るように思いました。
リハビリも楽しいものではなく、今もそうですが、何もせずにベッドに寝たきりのほうが楽なのです。逆に言えば外に出たいという欲求を叶えてやることは、自分にとってはかなり辛いことなのです。しかも、その辛さも周囲には理解されない…
ただ、僕が辛さに耐えて社会復帰していくことを周囲は喜ぶわけですし、実際に仕事場も含めて、明らかに平静さを取り戻していくわけです。
ああ、やっぱりそうだ。僕の人生は僕のためにあるんじゃない。
今もそう思っていますが、僕の意のまま、快楽のままに生きていれば、それはただのわがままで、周囲が求めるように生きていく。それがオーガニックなんだろうと思っています。考えてみれば意のままにならぬ「自然」という環境の中で、それに沿うてしか生きていけないのが生命です。せっかく若芽を芽吹かせても、きのうみたいな季節外れの台風で小枝をボキボキ折られて、それでも生きていくのが樹木です。
一日一日を求められるように生きていく…
自分の快楽、幸福の方向を選ぼうとしても、それもまた苦しいだけな気もしますしね。