1945年3月10日

今は2015年3月10日の午前4時を少し回ったところです。

今が1945(昭和20)年3月10日、ここが東京の下町ならと考えます。
午前2時30分過ぎ、空襲警報は解除されたようです。でも、その解除を知る手段がなかったでしょう。下町全体が地獄です。
直接、炎に煽られるのではなく、人が伏せたと思ったら、髪の毛から燃え始めたという目撃談をうかがったことがあります。その話を聞かせてくださった女性には、片腕もなく、顔の片側もありませんでした。

僕は墨田区の同愛記念病院の生まれです。生家は台東区です。
生後2歳にして、僕は結核性肺門リンパ線炎になり、オフクロの実家を頼って一家共々ヨコハマに移りますが、それでもオヤジの工房はあるし、ばあちゃんはいるし、長い休みになれば下町に長期滞在するのが常でした。

わがご町内は、東京大空襲にも本格的な被災を免れた運のいい場所でした。周辺にも、あちこちに「当時のまま」という部分が残されていました。

そういった意味では、墨堤も、ただの桜の名所というだけでなく、僕には屈託がありました。空襲によって両親を失った孤児たちが暮らしていたという地下…そこからは毎日のように遺骸が運び出されていたという話しも聞かされていました。

今も、言問橋にさしかかれば一礼します。
うちのばあちゃん、話が上手かったので、あの日のことがビジュアルで浮かび上がってくるのです。

人間が人間を生きながら焼き殺したことがある。今、スカイツリーが立っているあたりは、たった70年前、そういう現場でもあったのです。

あの日、亡くなられた方。苦難の戦後を歩まれた方。みなさんの魂に、ただただこうべを垂れたいと思います。

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