観察対象があるということ

どんなにもっともらしくても、僕は「哲学者」という人のいうことは聞き流してしまいます。そに人の頭の中でイメージされたことは、どこまで行っても、その人の「仮説」。その人が感じたこと、見たことに過ぎないからです。

そこへいくと「社会学」には「観察対象」があって、それを描写することからはじまるところがある。だから、ぐっと信憑性、信頼性が高いのではと思います。

だいたい、人間の行動って合理的ではない。それなのに合理的な筋立てをして人間や人間の社会を考察しようなって、僕には矛盾していることのように思えるのです。それ故、ケインズ、フリードマンな経済学は「ああ、そうなんですか」程度にしか興味を持てず、興味深く本を読んでいるのは「行動経済学」。こいつは進化形だぜと思っています。

複雑怪奇な人間や人間の社会が研究対象ですから、まだまだ科学的な法則性や定理を見つけられていない部分も多く、そこを指して「科学じゃない」という人もいますが、じゃぁ、哲学のどこが科学的なんだと思います。

いずれにせよ。観察対象がなければ、「思いつき」も「熟考」も主観的な仮説の暴走に歯止めはかけられません。

だから原発なんか造っちゃったんでしょう。あれもなんかの哲学に拠れば正義なんでしょうし。

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