後悔先に立たずという状況

外交は複数の人脈を複雑に使って行うもので、お偉いさんに直談判をすれば済む…というものではありません。つまり、プーチンさんやトランプさんとの個人的な親しさを強調して終わる安倍さんは、そういった外交が苦手なのでしょう(「ロン・康」外交はあくまでも表層上のパフォーマンスでした)。

そういったわけで、すでに、我が国は北方領土問題も拉致家族問題も自国で解決できない状態ですし、北海道ではもう中国資本に少なくとも東京ドーム15個ほどは土地をおさえられ、対馬では韓国の進出も許しています。北方領土には中国だけでなくドイツも経済進出を果たしています。北方領土を取り戻すのも難しい状況になっちゃっていますし、彼らにとっての「邦人保護」を名目にされた侵攻があったら、それをどう受け止めるのか。戦争では国際世論の中での孤立ということも考えられ、そうなれば前の大戦の二の舞です。

安倍さんたちは経済学も苦手です。GDPの80%以上にも当たる巨額で自国国債を買う日銀をそのままにし、貿易上での駆け引きも、まるで日大の危機管理のように、全てが後手に回っています。再開発だって、総量規制は効いていなくて、まぁ、雨後の筍のようです。まるで自ら主要都市に空襲をかけて各都市を焦土にしていっているようです。これから大量のゴーストタウンが生み出されます。

でも、安倍さんたちは、すでに政府の人事権を握って有能な官僚を外に追いやり、あまり有能ではない(宮台さん曰くの)ケツ舐め官僚しかいない状況です。これから起こることに、彼らが対応できるとは思えませんし、実際、今も無邪気に傷口を広げていっています。

(地方も地方です。官房長官の影響が強い自治体だと、政令級の大都市でも、フツウに大学の建築学科を卒業して二級建築士の資格もあやふやな人が都市計画担当の副市長だったりする…といった具合です)

ようやく「反攻」は始まりました。実は、豊かな語学力と人脈とを持つ河野太郎さん(彼のツイッターを覗いてみてください)と、外野に置かれていた外務官僚が最近になって活躍し始めているのも、その表れでしょうし、麻生さんというアイコンを使いものにならないくらいに痛め付けているのも、麻生派を一気に河野派にしてしまおうという意図のもとに行われていることなのかもしれません。野田さんもダイバー・シティと女性活躍を軸に動きを進めていらっしゃいますし、石破さんも閣外から始動しはじめています。

とはいえ、こと無きを得る…というわけにはいかないのが現実です。長期政権でしたから「覆水盆に返らず」ということも多いし、実際に働き改革は彼らの思うように成立してしまうのでしょうし、近く訪れるだろう経済的な災禍は決定的なAI化と、それに伴う深刻な職場不足を産み、高齢者の福祉的・医療的なケアは薄く、各家庭は、こうしたことにも悩まされるのでしょう。

まさに後悔先に立たずという状況を経験して、僕らは次の時代の黎明を迎えます。

今からできることは「後悔先に立たずという状況」をいかに短くするか…そのために何ができるか。

一生懸命、考えて 実際に行動してみましょう。ここが踏ん張りどころです。

事は始まってしまっているが

これまで、現在の状況を前の大戦時に準えて、今はすでに対米開戦後の状況で負けが込み、いつ空襲が始まるのか…という状況だと思ってきました。

でも、違うな… つい最近、そう思うようになりました。

確かに、多くの専門家が指摘するように「今は昭和初期、戦前の状況」と準えるのが妥当なのかもしれません。つまり、当時、祝い事のように喧伝された「真珠湾攻撃」を2020年の東京オリンピックに重ね、数年後、各地で都市再開発事業が失敗し、周辺地域を巻き込んで各都市の中心市街をゴースト・タウン化させ、AIの汎用化によって多くの人々の就業がおぼつかなくなり、団塊の世代は後期高齢化に達し、公的な財政状況は切迫し、高齢者だけではなく子育て世代などへの公的支援もままならないといった状況が、この国に蔓延する… そのあたりを「昭和20年」と考えた方が現状にリアルだと思うようになったのです。

しかしながら、事は始まってしまっていることには変わりがありません。かつての昭和初期を「戦前」と称するように、今、この国は「災禍」に向けて走り始めてしまっています。

できることは「昭和20年」当時に比較すれば、早く「次の時代」を始めること。そのために「公的にできること」を探し、自分のダメージを低減させるために相応の準備をすることでしょう。「昭和20年」当時も早期に「戦後」は始まったのかもしれませんが、それは「Occupied Japan」としての始動であり、その分、現在に至る隷属を強いられている部分もあります。

決して楽観視できる状況ではありませんが、二度めの「戦前」は、「一度め」の経験を踏まえて修正を加えられている「戦前」のようにも思えます。SNSなど、当時にはなかった味方もいます(敵かもしれませんが)。

いずれにせよ。「災禍」に備え「災禍」を早く終わらせることでしょう。

個人力が試されます。

純血主義

志村真幸さんという方がお書きになった「日本犬の誕生ー純潔と選別の日本近代史」という本があります(2017年3月:勉誠出版)。

近頃、ロシアの大統領やらスケート選手やらのお名前とともに「秋田犬」がクローズ・アップされていますが、副題にある「純潔と選別の日本近代史」からもうかがえるように、純血種はたぶんに人工的なもの。しかも、「非国民」を選別し、抹殺していくような「意図」が見え隠れするするようで、少なくとも近代化、国民国家形成を推奨する考え方を象徴し、やがては「お国のために戦争へ」の導引とされたような…

(あのヒトラーのアーリア人主義を彷彿とさせる。また、安倍さんたちの価値観にも似ていますね)

江戸時代までは純粋性に拘る価値観は、この国にはなかったようです。また、動物というもの、やがては雑種になっていくという方が自然で、「純血種」というのは極めて不自然なのだそうです。

なぜ「純血」を希求する人たちが出てくるのか、そに理由は何なのか。
返って「人種」から離れてみることから得られることも多いのかもしれません。

真正なる「日本犬」の姿という考え方の不気味さ…

国民という名のアンドロイドに仕立て上げられてしまう前に、真摯に考えておくべきことのひとつです。

案外、命がかかってるんですが

西田敏行さんや渡辺謙さんがご出演になった映画「陽はまた昇る」は2002年に公開の映画(東映)。すでに15年以上も前の作品です。

頼れるリーダーのもとに、それぞれの社員が結集し、それぞれの持ち場、持ち場で、ベスト以上のパフォーマンスをし、悲観的な状況を跳ね返して、とある事業を成功へと導いていく…
そういう涙の「会社員」物語…「陽はまた昇る」は、そういう映画作品の最後のメジャー作品だったかもしれないし、公開された当時でさえ、少しアンティークに思えた作品だったかもしれません。

「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」(NHK総合)が最終回を迎えたのは2005年も大晦日の12月28日でした。これとても10年以上前のことです。あの頃、田口トモロヲさんの物真似があちこちで繰り返されていたことに象徴されるように、社会的な影響力を持つまでに至ったともいえる大ヒット番組だったわけですが、すでに 高度成長期型の「会社員像」をサウダージにしていく番組でもありました。でも、あの頃の僕たちは、そのことに気づきませんでしたが…

映画「サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ」が大ヒットしたのが1962年。これは、お気楽にやる方の高度成長期型の「会社員」の基本コンセプトみたいになったような作品ですが、今となっては「サラリーマン 気楽な稼業と来たもんだ」と思っている人はほとんどいないでしょう。みなさん、必死にしがみついているのだと思います。その頃に生まれた僕らの世代は、一流に大学を出て、一流の企業に就職するなんて「物語」に乗せられちゃった口です。「就職」といいつつ「就社」であったことに何の疑問を持つこともありませんでした。あの頃の僕らは、あの東芝がこんな感じになるとは夢にも思わなかったわけですが、今や「一流の企業」なんていうカテゴリーはカテゴリーごとグラグラです。

でも、時代の変化に合わせて、僕らはどこまで自分をアジャストすることができているのか…

AIが登場し「組織の一員である」より「個人力」の時代へと加速度的に「移行」は始まっています。つまり、高度成長期型の就業スタイルっていうのは「お前はすでに死んでる」状態にありそうです。

でも、僕らはなかなか動き出せない。

風雲急を告げる幕末。あの第二次長州征伐の折、「井伊の赤鬼」と恐れられていた井伊軍(幕府側)は、その実「関ヶ原の戦い」の頃と変わらぬ軍装で臨み、輸入されたミニエー銃で武装し、欧米由来のアウトレンジ戦法を要した長州軍に十分の一にも満たない軍勢で、呆気なく撃破されてしまいます。これで「武」を担保にして治世してきた徳川幕府は完全に窮地に立たされてしまう…
幕府側にいれば、未だに戦国時代かという常識がまかり通っていて「お前はすでに死んでる」状態に気づかずに出陣し、自分の命を裸でミニエー銃の前に晒す結果になり、そのことで自分の生活の柱である幕府自体も大きく傾けてしまう。前の大戦末期の日本軍も同様の状態にあったでしょう。

先をゆく奴はとっとと先を行っていて、小手先のマイナー・チェンジな変化しかできない者は「お前はすでに死んでる」状態にどんどん追い込まれていく。そして、先をゆく者はいつも少数です。

きっと、今もそうです。案外、命がかかってるんですが、のんびりしているのがスタンダードです。

評論家

例えば「ポピュラー音楽の評論家」とか…

1961年生まれの僕が若い頃に活躍していた「評論家」って職種の人たちは、「知らないデータ」を教えてくれる専門職っていうイメージが強かったなぁ。「今、ウエスト・コーストで注目の新人は誰」とか。「このアルバムには〇〇ってアーティストがコーラスで参加している」とか。でも、今になってみると、肝心の「楽曲の素晴らしさ」の部分については、思い切り「主観的な感想」で、論拠は「自分の感性」みたいな感じ…

こういう感じが、今はどんどん変わっていっているんでしょう。データの部分は検索エンジンにかなわないわけだし…

「論拠は自分の感性」で済んでたのは、「みんな」についていかなきゃとか、「みんな」に先駆けてトレンドをキャッチ・アップみたいな消費者のニーズがあった時代だったから。それ故に「教科書(テキスト)」に見立てることができた「評論家=権威」が成立した時代の賜物なんでしょう。

(今でも「あこがれや崇拝の的となるもの、こと」を「ファッション・アイコン」「時代のアイコンとなる」なんていいますが、あの頃の「評論家」さんは、これより「先生」感が強い…だから「教科書(テキスト)」)

「私以外私じゃない」が露わになっていく時代には「論拠=自分の感性」じゃ弱いんでしょう。「そりゃ、あんたは好きだっていうのかもしれないけれど」なんて言われちゃいそうですしね。

そもそも「今、ウエスト・コーストで注目の新人」みたいなデータも必要とされなくなるんでしょう。
ただ、自分が、その時、欲しくなる楽曲かどうか…そういう意味では楽曲の背景にある理屈に詳しいより、ステキな時間をつくることができる「選曲家」の方がアイコンになるのかな。どうみても「先生」が必要とされる時代ではなさそうです。

もちろん、未だ「これまで」という時代にいて「みんな」と暮らしていこうとしている人については「従来どおり」だと思いますが…

笑えない話し

このブログの前に運営していたものに2012年に書いた記事です。この年の4月から僕は大学院生になっていました。

以下、その文章です。

4月からは大学院に行くぞという今年(2012年)の2月12日 J-CASTニュースにこんなリードから始まる記事が掲載されていました。

「女は大学院に行くより、整形した方が幸せになれる」―こんなツイートがネット上で話題になっている。男女雇用機会均等法が制定されて以来、多くの女性は学を付けてキャリアウーマンを目指すようになったが、ここに来て女性の気持ちが変化しているのだろうか。」

この記事、賛成する人は「学歴があっても見た目の美しさには勝てない」という思い、反対する人は「整形すること自体が悪」という思いがあるようだ。と結ばれているんですが、僕は「大学院」と「整形手術」が天秤にかかるというその評価軸が設定されていること自体に「ああ、言い得て妙だな」と思いました。

学歴っていうのは、ずっとインフレ傾向にあって、いまや早慶でさえ面接だけで入れちゃうようなところがあって、僕らが現役で大学入学を目指していた頃と比較しても、今は、はるかに「広き門」。大学院だって「誰でも」とは言いませんが、学費納められれば「入れる」みたいな手軽さが出てきたってことは否めない事実です。しかしながら、その「広き門」にも関わらず、文部科学省の学校基本調査によると、大学院に入学する女性は2006年の約2万8300人をピークに減少傾向にあり、2011年には微減ながら2万8000人を割り込んでいる。4年生大学の学部・大学院を合わせた入学者数は、2001年=約103万人だったものが、2011年には約120万人に増加しているというのに。法科大学院も半数以上で定員割れだそうですが、これも、仮に弁護士になれても「食ってくの、大変らしい」ということがバレてきちゃっていることに拠るんでしょう。大学院出たからって、研究職なりキュレーターみたいな専門職になるのは大変。ビジネスの世界でだってMBAを持ってるかどうかよりは、結果が出せるかどうかなんでしょう。

つまり、あえて大学院行く意味ないじゃん という感じなんだと思います。

美人であることをプレミアにしちゃうなんて、男社会な馬鹿さ加減かもしれませんが、実際「整形」が、それなりの効力を発揮する場面もあるんだと思います。

いずれにせよ

整形手術を受けるか受けないかと大学院に行くのか、行かないかが、天秤にかかることにリアリティがあるのが「今様」ってことなんでしょう。

笑えない話しです。

SOHO

しかし、SOHOって概念…
ありゃ何だったんだろうと思いますね。

(SOHO=Small Office/Home Office 会社と自宅や郊外の小さな事務所を
コンピュータネットワークで結んで、仕事場にしたもの。
あるいは、コンピュータネットワークを活用して自宅や小さな事務所で事業を起こすこと)

たぶん、実質的には、自宅で自営な、つまり僕みたいな就労の仕方している人のことを指すんでしょうが、クラウドに上げちゃったデータで仕事しちゃうような人が現れちゃうと、どこでもオフィスな感じでHome Officeもへったくれもない…と、ホームは厳然としているけれど、オフィスは溶けて無くなっちゃったような感じですよね。

そういうことを踏まえて改めて自分の周囲を見渡してみると、やっぱり「オフィスでしかない」空間って無いんですよね。どっちかっていったら「自宅」で仕事している感じ。ベッドに寝っ転がってプライベートに「本」を読んでいても、それが仕事のヒントになってしまったり。…でも、オフィスに寝てる感じはしませんね。奥さんも居るし…

やっぱり こりゃ ただの「ホーム」ですよ。

アイディア(ひらめき)は、いつ現れるのか、わかりませんからね。知価(情報)生産は、ご家庭から…なんでしょう。たぶん 最初っからSOHOなんてなかったんですよ、きっと。知価(情報)生産を工業生産に準じて考えちゃったんでしょう。ホントはぜんぜん違うのにね。

死ぬ思い

松浦弥太郎さんの著作「最低で最高の本屋」(集英社文庫)のなかに、こんな一節がでてきます。

一生懸命やることは当たり前で、一生懸命は評価の対象にならない。一生懸命かどうかというのは、自分が勝手に考えることで、クライアントや一緒に仕事する人たちに関係ないことだと思う。仕事ですから、やはり結果を出すことが求められます。

松浦さんは、このことをさらっと、それこそ「当たり前」のように書いておられます。 僕も、そうだろうなーと思う方です。
でも、実際のところ、自分に、このことを「課せる人」「課し続けられる人」って、巷では、たぶんマイノリティです、ほとんどいない。むしろ、結果よりもプロセスを酌んでくれーという人が(いい歳をしていても)多い。それが高度成長期期という長い「ぬるま湯」な時代を過ごしてきた後遺症みたいなもんでしょう。

恐らく、仕事ですから、やはり結果を出すことが求められます。と、心底、思える人っていうのは、もう、その時点で、何かにはなっちゃうというか、喰っていける…その稼業が第一希望のものではなかったとしても、なんかやって喰っていけてる…

そうなんだと思います。

でも、これからの時代。結果は出せなかったけれど、苦労したところ、悩んだところは酌んでくれと、周囲にそういうところを期待してしまう人、褒めてもらえれば「伸びる」みたいな感覚を捨てきれない人は大変なんだと思います。

人間、弱いですから、確かに本音では「悩んだところを酌んでくれ」「褒めてもらえれば、伸びる」と思っています。でも、実際のところ他人はそうはしてくれないですし、自分も、他人にはそうしないでしょう。だから、仕事ですから、やはり結果を出すことが求められます。と思っていた方が現実的なわけです。でも、中流の全盛時代、僕らは「悩んだところを酌んでもらえる」「褒めてもらって、伸びる」、どこかにそういう職場があるはずだと夢を見てしまったのです。松浦さんのように賢明な方は、その頃から、そんなはずはないとどこかで歯を食いしばってきたのでしょうが、それ、レギュラーではありません。

一生懸命かどうかというのは、自分が勝手に考えることでクライアントや一緒に仕事する人たちに関係ないことだと思う。

でも、急には方向転換ができない…夢の終わりを追いかけてしまうものです。
もっと時代がシビアになって、死ぬ思いをするしかないかな。でも、その「死ぬ思い」っていうのに耐えられるかどうか…

それだって「課せる人」「課し続けられる人」のようにマイノリティなんだと思います。