純血主義

志村真幸さんという方がお書きになった「日本犬の誕生ー純潔と選別の日本近代史」という本があります(2017年3月:勉誠出版)。

近頃、ロシアの大統領やらスケート選手やらのお名前とともに「秋田犬」がクローズ・アップされていますが、副題にある「純潔と選別の日本近代史」からもうかがえるように、純血種はたぶんに人工的なもの。しかも、「非国民」を選別し、抹殺していくような「意図」が見え隠れするするようで、少なくとも近代化、国民国家形成を推奨する考え方を象徴し、やがては「お国のために戦争へ」の導引とされたような…

(あのヒトラーのアーリア人主義を彷彿とさせる。また、安倍さんたちの価値観にも似ていますね)

江戸時代までは純粋性に拘る価値観は、この国にはなかったようです。また、動物というもの、やがては雑種になっていくという方が自然で、「純血種」というのは極めて不自然なのだそうです。

なぜ「純血」を希求する人たちが出てくるのか、そに理由は何なのか。
返って「人種」から離れてみることから得られることも多いのかもしれません。

真正なる「日本犬」の姿という考え方の不気味さ…

国民という名のアンドロイドに仕立て上げられてしまう前に、真摯に考えておくべきことのひとつです。

案外、命がかかってるんですが

西田敏行さんや渡辺謙さんがご出演になった映画「陽はまた昇る」は2002年に公開の映画(東映)。すでに15年以上も前の作品です。

頼れるリーダーのもとに、それぞれの社員が結集し、それぞれの持ち場、持ち場で、ベスト以上のパフォーマンスをし、悲観的な状況を跳ね返して、とある事業を成功へと導いていく…
そういう涙の「会社員」物語…「陽はまた昇る」は、そういう映画作品の最後のメジャー作品だったかもしれないし、公開された当時でさえ、少しアンティークに思えた作品だったかもしれません。

「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」(NHK総合)が最終回を迎えたのは2005年も大晦日の12月28日でした。これとても10年以上前のことです。あの頃、田口トモロヲさんの物真似があちこちで繰り返されていたことに象徴されるように、社会的な影響力を持つまでに至ったともいえる大ヒット番組だったわけですが、すでに 高度成長期型の「会社員像」をサウダージにしていく番組でもありました。でも、あの頃の僕たちは、そのことに気づきませんでしたが…

映画「サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ」が大ヒットしたのが1962年。これは、お気楽にやる方の高度成長期型の「会社員」の基本コンセプトみたいになったような作品ですが、今となっては「サラリーマン 気楽な稼業と来たもんだ」と思っている人はほとんどいないでしょう。みなさん、必死にしがみついているのだと思います。その頃に生まれた僕らの世代は、一流に大学を出て、一流の企業に就職するなんて「物語」に乗せられちゃった口です。「就職」といいつつ「就社」であったことに何の疑問を持つこともありませんでした。あの頃の僕らは、あの東芝がこんな感じになるとは夢にも思わなかったわけですが、今や「一流の企業」なんていうカテゴリーはカテゴリーごとグラグラです。

でも、時代の変化に合わせて、僕らはどこまで自分をアジャストすることができているのか…

AIが登場し「組織の一員である」より「個人力」の時代へと加速度的に「移行」は始まっています。つまり、高度成長期型の就業スタイルっていうのは「お前はすでに死んでる」状態にありそうです。

でも、僕らはなかなか動き出せない。

風雲急を告げる幕末。あの第二次長州征伐の折、「井伊の赤鬼」と恐れられていた井伊軍(幕府側)は、その実「関ヶ原の戦い」の頃と変わらぬ軍装で臨み、輸入されたミニエー銃で武装し、欧米由来のアウトレンジ戦法を要した長州軍に十分の一にも満たない軍勢で、呆気なく撃破されてしまいます。これで「武」を担保にして治世してきた徳川幕府は完全に窮地に立たされてしまう…
幕府側にいれば、未だに戦国時代かという常識がまかり通っていて「お前はすでに死んでる」状態に気づかずに出陣し、自分の命を裸でミニエー銃の前に晒す結果になり、そのことで自分の生活の柱である幕府自体も大きく傾けてしまう。前の大戦末期の日本軍も同様の状態にあったでしょう。

先をゆく奴はとっとと先を行っていて、小手先のマイナー・チェンジな変化しかできない者は「お前はすでに死んでる」状態にどんどん追い込まれていく。そして、先をゆく者はいつも少数です。

きっと、今もそうです。案外、命がかかってるんですが、のんびりしているのがスタンダードです。

評論家

例えば「ポピュラー音楽の評論家」とか…

1961年生まれの僕が若い頃に活躍していた「評論家」って職種の人たちは、「知らないデータ」を教えてくれる専門職っていうイメージが強かったなぁ。「今、ウエスト・コーストで注目の新人は誰」とか。「このアルバムには〇〇ってアーティストがコーラスで参加している」とか。でも、今になってみると、肝心の「楽曲の素晴らしさ」の部分については、思い切り「主観的な感想」で、論拠は「自分の感性」みたいな感じ…

こういう感じが、今はどんどん変わっていっているんでしょう。データの部分は検索エンジンにかなわないわけだし…

「論拠は自分の感性」で済んでたのは、「みんな」についていかなきゃとか、「みんな」に先駆けてトレンドをキャッチ・アップみたいな消費者のニーズがあった時代だったから。それ故に「教科書(テキスト)」に見立てることができた「評論家=権威」が成立した時代の賜物なんでしょう。

(今でも「あこがれや崇拝の的となるもの、こと」を「ファッション・アイコン」「時代のアイコンとなる」なんていいますが、あの頃の「評論家」さんは、これより「先生」感が強い…だから「教科書(テキスト)」)

「私以外私じゃない」が露わになっていく時代には「論拠=自分の感性」じゃ弱いんでしょう。「そりゃ、あんたは好きだっていうのかもしれないけれど」なんて言われちゃいそうですしね。

そもそも「今、ウエスト・コーストで注目の新人」みたいなデータも必要とされなくなるんでしょう。
ただ、自分が、その時、欲しくなる楽曲かどうか…そういう意味では楽曲の背景にある理屈に詳しいより、ステキな時間をつくることができる「選曲家」の方がアイコンになるのかな。どうみても「先生」が必要とされる時代ではなさそうです。

もちろん、未だ「これまで」という時代にいて「みんな」と暮らしていこうとしている人については「従来どおり」だと思いますが…

笑えない話し

このブログの前に運営していたものに2012年に書いた記事です。この年の4月から僕は大学院生になっていました。

以下、その文章です。

4月からは大学院に行くぞという今年(2012年)の2月12日 J-CASTニュースにこんなリードから始まる記事が掲載されていました。

「女は大学院に行くより、整形した方が幸せになれる」―こんなツイートがネット上で話題になっている。男女雇用機会均等法が制定されて以来、多くの女性は学を付けてキャリアウーマンを目指すようになったが、ここに来て女性の気持ちが変化しているのだろうか。」

この記事、賛成する人は「学歴があっても見た目の美しさには勝てない」という思い、反対する人は「整形すること自体が悪」という思いがあるようだ。と結ばれているんですが、僕は「大学院」と「整形手術」が天秤にかかるというその評価軸が設定されていること自体に「ああ、言い得て妙だな」と思いました。

学歴っていうのは、ずっとインフレ傾向にあって、いまや早慶でさえ面接だけで入れちゃうようなところがあって、僕らが現役で大学入学を目指していた頃と比較しても、今は、はるかに「広き門」。大学院だって「誰でも」とは言いませんが、学費納められれば「入れる」みたいな手軽さが出てきたってことは否めない事実です。しかしながら、その「広き門」にも関わらず、文部科学省の学校基本調査によると、大学院に入学する女性は2006年の約2万8300人をピークに減少傾向にあり、2011年には微減ながら2万8000人を割り込んでいる。4年生大学の学部・大学院を合わせた入学者数は、2001年=約103万人だったものが、2011年には約120万人に増加しているというのに。法科大学院も半数以上で定員割れだそうですが、これも、仮に弁護士になれても「食ってくの、大変らしい」ということがバレてきちゃっていることに拠るんでしょう。大学院出たからって、研究職なりキュレーターみたいな専門職になるのは大変。ビジネスの世界でだってMBAを持ってるかどうかよりは、結果が出せるかどうかなんでしょう。

つまり、あえて大学院行く意味ないじゃん という感じなんだと思います。

美人であることをプレミアにしちゃうなんて、男社会な馬鹿さ加減かもしれませんが、実際「整形」が、それなりの効力を発揮する場面もあるんだと思います。

いずれにせよ

整形手術を受けるか受けないかと大学院に行くのか、行かないかが、天秤にかかることにリアリティがあるのが「今様」ってことなんでしょう。

笑えない話しです。

SOHO

しかし、SOHOって概念…
ありゃ何だったんだろうと思いますね。

(SOHO=Small Office/Home Office 会社と自宅や郊外の小さな事務所を
コンピュータネットワークで結んで、仕事場にしたもの。
あるいは、コンピュータネットワークを活用して自宅や小さな事務所で事業を起こすこと)

たぶん、実質的には、自宅で自営な、つまり僕みたいな就労の仕方している人のことを指すんでしょうが、クラウドに上げちゃったデータで仕事しちゃうような人が現れちゃうと、どこでもオフィスな感じでHome Officeもへったくれもない…と、ホームは厳然としているけれど、オフィスは溶けて無くなっちゃったような感じですよね。

そういうことを踏まえて改めて自分の周囲を見渡してみると、やっぱり「オフィスでしかない」空間って無いんですよね。どっちかっていったら「自宅」で仕事している感じ。ベッドに寝っ転がってプライベートに「本」を読んでいても、それが仕事のヒントになってしまったり。…でも、オフィスに寝てる感じはしませんね。奥さんも居るし…

やっぱり こりゃ ただの「ホーム」ですよ。

アイディア(ひらめき)は、いつ現れるのか、わかりませんからね。知価(情報)生産は、ご家庭から…なんでしょう。たぶん 最初っからSOHOなんてなかったんですよ、きっと。知価(情報)生産を工業生産に準じて考えちゃったんでしょう。ホントはぜんぜん違うのにね。

死ぬ思い

松浦弥太郎さんの著作「最低で最高の本屋」(集英社文庫)のなかに、こんな一節がでてきます。

一生懸命やることは当たり前で、一生懸命は評価の対象にならない。一生懸命かどうかというのは、自分が勝手に考えることで、クライアントや一緒に仕事する人たちに関係ないことだと思う。仕事ですから、やはり結果を出すことが求められます。

松浦さんは、このことをさらっと、それこそ「当たり前」のように書いておられます。 僕も、そうだろうなーと思う方です。
でも、実際のところ、自分に、このことを「課せる人」「課し続けられる人」って、巷では、たぶんマイノリティです、ほとんどいない。むしろ、結果よりもプロセスを酌んでくれーという人が(いい歳をしていても)多い。それが高度成長期期という長い「ぬるま湯」な時代を過ごしてきた後遺症みたいなもんでしょう。

恐らく、仕事ですから、やはり結果を出すことが求められます。と、心底、思える人っていうのは、もう、その時点で、何かにはなっちゃうというか、喰っていける…その稼業が第一希望のものではなかったとしても、なんかやって喰っていけてる…

そうなんだと思います。

でも、これからの時代。結果は出せなかったけれど、苦労したところ、悩んだところは酌んでくれと、周囲にそういうところを期待してしまう人、褒めてもらえれば「伸びる」みたいな感覚を捨てきれない人は大変なんだと思います。

人間、弱いですから、確かに本音では「悩んだところを酌んでくれ」「褒めてもらえれば、伸びる」と思っています。でも、実際のところ他人はそうはしてくれないですし、自分も、他人にはそうしないでしょう。だから、仕事ですから、やはり結果を出すことが求められます。と思っていた方が現実的なわけです。でも、中流の全盛時代、僕らは「悩んだところを酌んでもらえる」「褒めてもらって、伸びる」、どこかにそういう職場があるはずだと夢を見てしまったのです。松浦さんのように賢明な方は、その頃から、そんなはずはないとどこかで歯を食いしばってきたのでしょうが、それ、レギュラーではありません。

一生懸命かどうかというのは、自分が勝手に考えることでクライアントや一緒に仕事する人たちに関係ないことだと思う。

でも、急には方向転換ができない…夢の終わりを追いかけてしまうものです。
もっと時代がシビアになって、死ぬ思いをするしかないかな。でも、その「死ぬ思い」っていうのに耐えられるかどうか…

それだって「課せる人」「課し続けられる人」のようにマイノリティなんだと思います。

資 格

国家というか、正確には政府。そうしたものへの信頼がゆらげば、国家資格の信頼もゆらぐというものです。
歯医者さんだというだけでは喰える時代ではないといわれて久しいのがいい証拠でしょう。

国家資格より「腕」…

そして、今や「歯医者さん コンビニより多い」というのが現状。厚労省の調べで、歯医者さんの年間廃業数は全国で1600院程度。毎日5院ずつほどが廃業している計算です(2016年)。

歯医者さん、今は「粗製乱造」気味だったかなともいわれています。

もともと「業務独占資格(その資格を持っていないと、その業務に就けないもの)」「設置資格(その事業を行う際に、その企業や事業所に特定の資格保持者を必ず置かなければならない)」にも、例えば、法曹の司法書士、行政書士などのように、なぜ別々の資格になったのかの必然性があいまいで、資格を与えるお役所側の事情じゃないかと言われているものが少なくありません(分けといた方が、たくさんの「お役人が喰える」からという…)。

「法律上、資格がなくても業務を行うことができるが」って「但し書き」って何?って思いますが、名称だけの独占にとどまる「名称独占資格」という資格もあります。

(名称独占資格=介護福祉士、社会福祉士、精神保健福祉士、保健師、製菓衛生師、調理師、栄養士、管理栄養士、技術士、技能士、中小企業診断士、マンション管理士、土地区画整理士…などなど)

各省庁ごとに、なんだかわからない外郭団体をつくって果たして実効性があるんだかないんだか判らないような資格を、しかも近接して、乱発する…
あんまり専門的な判断力がなくても「資格」を頼りに依頼すれば安心というのが、利用者側から見た「資格」の最大のメリットだったはずなんですが、もともと、それは「薮の中」にあったという…

まぁ、こういう面でも、自分の判断力だけが頼りなのでしょう。

リアルに歯を治すのが上手くて、費用的にもリーズナブルで 説明も上手いといった、そういう歯医者の先生を自分で探す…難しそうですが、そんな感じが今様なのかな。だったら資格を発行している役所や団体は何をしているの…という気もしますが。

(本格的に治療を要するようになっちゃう前に、歯垢除去なんかで「お試し」しつつ「探しておく」も手なんでしょう。ネットの情報はアテにならないのが世の常ですからね)

情報収集力と判断力

あるとき、奥さんと「うどん」を食べに銀座に出かけました。

行きの電車で、正面に「婚礼お呼ばれ」だったと思われる女性が引き出物と思われる袋を抱えながら腰掛けていて「宅地建物取引主任者」の資格取得のためのテキストを広げていらっしゃった…

つまり、頑張っていらっしゃったわけです。

で、「うどん」を食べた後、腹ごなしに勝鬨橋まで歩いて小休止と、渡ったところにあるデニーズでノンアルコール・ビールを飲む…そしたら、隣の席の女性が一生懸命に勉強されている。

アロマ・セラピストとか なんとか。

そのころ、僕は今、大学院生でしたが、今や大学院生も26万人。博士課程を修了する人だけで年間1万6千人と言われています。

(「末は博士か大臣か」の時代は遠い昔です)

たぶん、修士とったり、博士になれたりということが沽券になる時代は終わってるんでしょう。不動産会社に勤めていて、それで「宅地建物取引主任者」の資格を持ってて(よくても)月額1万円か2万円の手当が増えるか増えないかだそうですが今や、修士・博士もそんなもんです。弁護士さんだって、余っちゃってるから司法試験の合格者を少なくしていこうって検討が始まっています。

何しろ、今は情報の拡散が速いですからね。1人の成功事例に10万人が群がるまでに 大した時間はかかりません。

しかし… それにしても

学校側は、数言うことに言及しません。AViVAな資格講座のCMだけじゃなく、大手の新聞だって、大学だけじゃなく、社会人大学院などを奨励するような感じですが、それ「沽券じゃないよ」という警鐘を鳴らすことには消極的です。

やっぱり「食い扶持」に繋がっているからなんでしょう。

しょうがないから、自分で取材して自分で判断。 進学や資格取得の勉強を始める前に、情報収集力と判断力…なんだか本末転倒な気もしますが、こういう時代ですから仕方ありません。