評論家

例えば「ポピュラー音楽の評論家」とか…

1961年生まれの僕が若い頃に活躍していた「評論家」って職種の人たちは、「知らないデータ」を教えてくれる専門職っていうイメージが強かったなぁ。「今、ウエスト・コーストで注目の新人は誰」とか。「このアルバムには〇〇ってアーティストがコーラスで参加している」とか。でも、今になってみると、肝心の「楽曲の素晴らしさ」の部分については、思い切り「主観的な感想」で、論拠は「自分の感性」みたいな感じ…

こういう感じが、今はどんどん変わっていっているんでしょう。データの部分は検索エンジンにかなわないわけだし…

「論拠は自分の感性」で済んでたのは、「みんな」についていかなきゃとか、「みんな」に先駆けてトレンドをキャッチ・アップみたいな消費者のニーズがあった時代だったから。それ故に「教科書(テキスト)」に見立てることができた「評論家=権威」が成立した時代の賜物なんでしょう。

(今でも「あこがれや崇拝の的となるもの、こと」を「ファッション・アイコン」「時代のアイコンとなる」なんていいますが、あの頃の「評論家」さんは、これより「先生」感が強い…だから「教科書(テキスト)」)

「私以外私じゃない」が露わになっていく時代には「論拠=自分の感性」じゃ弱いんでしょう。「そりゃ、あんたは好きだっていうのかもしれないけれど」なんて言われちゃいそうですしね。

そもそも「今、ウエスト・コーストで注目の新人」みたいなデータも必要とされなくなるんでしょう。
ただ、自分が、その時、欲しくなる楽曲かどうか…そういう意味では楽曲の背景にある理屈に詳しいより、ステキな時間をつくることができる「選曲家」の方がアイコンになるのかな。どうみても「先生」が必要とされる時代ではなさそうです。

もちろん、未だ「これまで」という時代にいて「みんな」と暮らしていこうとしている人については「従来どおり」だと思いますが…

資 格

国家というか、正確には政府。そうしたものへの信頼がゆらげば、国家資格の信頼もゆらぐというものです。
歯医者さんだというだけでは喰える時代ではないといわれて久しいのがいい証拠でしょう。

国家資格より「腕」…

そして、今や「歯医者さん コンビニより多い」というのが現状。厚労省の調べで、歯医者さんの年間廃業数は全国で1600院程度。毎日5院ずつほどが廃業している計算です(2016年)。

歯医者さん、今は「粗製乱造」気味だったかなともいわれています。

もともと「業務独占資格(その資格を持っていないと、その業務に就けないもの)」「設置資格(その事業を行う際に、その企業や事業所に特定の資格保持者を必ず置かなければならない)」にも、例えば、法曹の司法書士、行政書士などのように、なぜ別々の資格になったのかの必然性があいまいで、資格を与えるお役所側の事情じゃないかと言われているものが少なくありません(分けといた方が、たくさんの「お役人が喰える」からという…)。

「法律上、資格がなくても業務を行うことができるが」って「但し書き」って何?って思いますが、名称だけの独占にとどまる「名称独占資格」という資格もあります。

(名称独占資格=介護福祉士、社会福祉士、精神保健福祉士、保健師、製菓衛生師、調理師、栄養士、管理栄養士、技術士、技能士、中小企業診断士、マンション管理士、土地区画整理士…などなど)

各省庁ごとに、なんだかわからない外郭団体をつくって果たして実効性があるんだかないんだか判らないような資格を、しかも近接して、乱発する…
あんまり専門的な判断力がなくても「資格」を頼りに依頼すれば安心というのが、利用者側から見た「資格」の最大のメリットだったはずなんですが、もともと、それは「薮の中」にあったという…

まぁ、こういう面でも、自分の判断力だけが頼りなのでしょう。

リアルに歯を治すのが上手くて、費用的にもリーズナブルで 説明も上手いといった、そういう歯医者の先生を自分で探す…難しそうですが、そんな感じが今様なのかな。だったら資格を発行している役所や団体は何をしているの…という気もしますが。

(本格的に治療を要するようになっちゃう前に、歯垢除去なんかで「お試し」しつつ「探しておく」も手なんでしょう。ネットの情報はアテにならないのが世の常ですからね)

三色

次の時代になっていると社会が三色になってるんでしょうね。

ひとつは、エスタブリッシュな、絶対的なお金持ちたちの社会です。
全人口に対して、ほんの数パーセントいるかいないか。恐慌にいきあたって財産半減でもビクともしないお金持ちです。

次に彼らのための食品や生活道具、服飾などをつくりだす腕を持つ生産者や技能職。それに彼らの資産を運用のネタになる科学技術やアート、デザインに腕をふるったり、専門的なアイディアを供給するリチャード・フロリダ曰くのクリエイティブ・クラス。そして、その技能職やクリエイティブ・クラスの人々のための食品や生活用品を供給する生産者や工房な人々。この分野は世襲じゃないだけに勃興が効きそうですが、エスタブリッシュやクリエイティブな人たちに愛されるだけの「質(しつ)」をつくり出すには、つくる人にそれなりの生活文化を持ってることが要求されるものです。そうした生活文化を当代に実現するためには、そこに至る数代の努力が必要で、現実的には「天才の出現」以外、勃興は難しいというのが現実でしょう。

故に、このあたりの人々も人口全体の10パーセント程度で、そうそうは増えていかないのかなと思います。

(僕は、擬えれば、高校の野球部全体の中で、甲子園の決勝戦に残る高校くらいな感じがエスタブリッシュで、技能職やクリエイティブ・クラスの人々がベスト8か16か…っていう感じにイメージしています)

そして

80%を超える「ふつう」な人々はベーシック・インカムを主な収入源として暮らし、住居は自らがサンプルになることを前提に製薬会社など大手企業が無償提供するものに暮らす人も少なくないのでしょう。WiFiやスマホなども同様に無料。食料や菓子、酒類などは政府に拠る「配給」かな。教育や医療も、それなりに「公」が用意するのだと思います。

もちろん、100%の労働が無くなってしまうわけではないでしょうが、お金がなくても暮らしていける社会でお金儲けをしても仕方がないので、お金を稼ぐための労働というより、労働は「人助け」的なものになるでしょう。

ただ、徴兵付きかもしれません。もちろん、空爆などの対象にもなる…
今もそうですが、世の中「数でしかない人」には酷いものです。

産業革命の頃なら「数」にも値打ちがあって、故に労働運動が力を持ったわけですが、そのあたりはAIが電気代だけの無償労働で年中無休の24時間営業です。

エスタブリッシュな人たちの権益争いのための「人柱」になる…
それだけが「生かされている」意味になったりするのかもしれない。

労働から解放されても、バラ色の未来とはいかないようだし、
封建時代以上に「階級」は、もっとフィックスされちゃったものになっているのかもしれません。

所 以

なぜ、それは「いっぺんに来る」のか…

簡単です。止められないからです。あらゆる分野の どのレベルに働く人も わかっちゃいるけど、やめられない…

だから、ダメになるときは束なった太い縄がブツんと切れるようにゆく…

あの戦争も何度もやめるチャンスがあったのに、うちのオヤジたちの世代は男子の三人に一人が亡くなり、日本中の都市が人々の命ごと焼かれ、原子爆弾も投下された。外地からの引き上げにも筆舌に尽くし難い艱難辛苦。戦後の街に戦災孤児たちは溢れ、大陸にも戦争に罪なきたくさんの子どもたちが残された。

つまり、断末魔のような外的要因が「来る」までは わかっちゃいるけど、やめられない。

災禍は「いっぺんに来る」所以です。

等身大に気楽に生きて

磯田道史さんの受け売りみたいになっちゃうけれど、確かに農業や工業においての技術と違って、いわゆるIT技術やAIにおいての技術は二極化を激しくしながら、大半の人々を貧しくするために作用してしまったんでしょう。鉄腕アトムの21世紀には、たぶん想定されていなかったことだし、実際に技術を開発した人たちだって、そんなことを意図していたわけではないでしょうけれど。

でも、結果としては「社会全体は経済成長しているにもかかわらず、1人当たりの収入を減らす『技術』が誕生したのです」(週刊SPA! 2018年1/16・23号 2018年「この国のかたち」より)ということになってしまった。そして、今もこの状況は加速度的に深刻化の一途をたどっています。

トマ・ピケティ氏が膨大な資料を分析して「少なくとも500年ほどは本格的な下剋上は起こっておらず、どの国でも資産家/特権階級は資産家/特権階級のまま」ということを明らかにしました。例の「わずか数%の人々が世界中の90%以上の富を所有している」というやつです。
その状況下に「知価と呼べるような情報を創り出す機会、AIが追いついてこれないような技能を持つ機会」に恵まれた者だけは、少しだけ暮らしを楽にすることができるのかもしれませんが、それだって少数に過ぎないのかもしれません。とても不幸なことに、当代の努力だけでは、知価と呼べるような情報を創り出すこと、AIが追いついてこれないような技能を持つことは不可能である可能性が高いからです。

トマ・ピケティ氏は「大きな戦争があった時だけ」ほんの少し下剋上が効くという分析結果も示しました。
つまり戦争で手柄を立てると「上」に上がれるかもしれないのです。日本の華族制度の中でも、そうした軍人たちの一群がいて「軍功男爵」などと呼ばれていました。

でも、それでステイタスが得られ、お金持ちになっても幸福になれるのかどうか。かの乃木将軍は二人の息子を戦死させ、自らも奥様とともに自刃です。

考え方を変えてみたらどうでしょう。

お金や資産を保有する「量」を目標にするのではなく、いかに自由でのびのびと生きれたかどうかを尺度にする。それが短命でもいいし、借り暮らしで終わってもいい。一人ぼっちでも「気楽」に生きた方が勝ち…みたいな。もちろん「知価と呼べるような情報を創り出す機会、AIが追いついてこれないような技能を持つ機会」に恵まれた人はそれを目指すのもいいけれど、これも当代の努力では届かないのかもしれないし、その道も幸福に満ちたものかどうかはわかりません。「置かれた場所で咲きなさい」ではないけれど、それぞれに与えられた人生をそれぞれに楽しんだ方が勝ち。もういいやといって笑って死ねることを目標にする。

僕はね。そもそも、人殺しの軍功を積んで華族に列せられるより、その方がうんとカッコいいと思うんです。

なにしろ、縛られないことですかね。それが最後の抵抗のように思います。

隣の芝生は蒼く見えるものですが、等身大の人生を無理せず楽しむっていいもんなんじゃないでしょうか。
だって、あとは世の中が悪いんだし、自分より前の世代に要因があるらしい。しかも蒼く見える芝生の家に住む人も、そんなに幸福じゃぁないらしい(だから、安倍さんは慢性の下痢ピーに悩まされているのでしょう)。
他人を巻き込まなきゃいいんだと思います。あとは等身大に気楽に生きて…

僕などは「一人」が好きなので、孤独死でもいいやと思っています。

「手探り」上等!

たぶん「朝のラッシュ」「帰宅ラッシュ」は過去のものになっていくんでしょう。
そんなに遠い未来の話じゃなくて、数年から、かかっても10年ほどでの変化だと思います。

そして、いくつかの鉄道路線が交錯するターミナル駅終焉の商業集積地は急速にポテンシャルを落としていく。そのかわりに、現在は喫茶店不毛の地みたいな郊外の住宅地に、平日の昼間を過ごせるようなcafeなどが増えていくのかもしれません。ただし、おしなべて「郊外」全域がそうなるわけではなく、外国からの労働者の方が増えて、やっぱり昼間は空っぽ、マスな規模のスーパーに支えられるという地域も目立つようになるのでしょう。また「全国に1千万人はいるかも」ともいわれる団塊の世代の方々を中心に、しばらくは特別養護老人ホームを林立させる「高齢者の街」になるところもありそうです。

(高齢者の街は「都心」にも現れそうですが)

「終身雇用制」で「一億総中流」の時代は終わります。一億総フリーランスな感じだし、年金じゃぁ食えませんから(医療保険の自己負担額も増額していくんだと思います)、その年齢になっても続けられる仕事を持つ人とそうでない人の二極化も進んでいるでしょう。

(マニュアル・レーバーは、さらに国際的な競争に巻き込まれながら、買い叩かれる一方でしょう。AI化も進んで警備員さんやお掃除のスタッフといった仕事は消滅しているんだと思います)

ずいぶん、様変わりします。様変わりするということで「取り残されたもの」は消えていくのでしょう。観光案内ではなくタクシーのような交通利便としての「人力車」が、今は無くなってしまったのと同じです。「ターミナル駅」があるから「ショッピング・ビル」があったわけだし、多くの人の生活がクルマを運転するほどの移動を必要としなくなれば、ロードサイド・レストランも、郊外型のショッピング・モールも必要なくなります。新橋でサラリーマン・ランチの名店となっていたお店も「通勤してくる人」が激減すれば同様です。環境の変化に適応できなければ淘汰されるのが、この星の定めです。

ただね。「淘汰」とはいうものの「人間」の場合、あっさりと殺してももらえない。いきられる可能性があれば「生命」としては維持されてしまう。

なるようになって「それから考えればいいや」というライフ・コンセプトが通用しそうに思えたのも、この国が高度成長期〜バブルというあぶく銭な時代にあったからです。しかも、その時代は「集団」の一員になってくれる人材を常に求めていた時代なのです。半世紀以上もそうでしたから、親御さんからしてそんな感じという方も少なくないのかもしれませんが、必ずしも「通勤」が必要なくなるのも、AIやコンピュータの発達によって、たいていのことが個人技の集積でなんとかなりそうだし、工場生産はロボットがやっちゃうかもしれないし…つまり、環境激変なわけです。

この国で、組織的な集団に拠る農業生産が確立されたのは中世から江戸時代の初期だといわれています。その「組織的な集団」が工業生産にも受け継がれて、何百年経つのでしょう。幸か不幸か、僕たちは、そうした時代の終わりに遭遇してしまったようです。

故に「これまで」を振り返って「なるようになるだろう」とタカをくくっているのは危険なわけです。
「手探り」上等。「トライ&エラー」城東。準備を急ぎましょう。

マニュアル

1961年生まれの僕は、マスな感じで就業者になり、消費者になるようにと教育された工業生産時代の子どもです。敗戦で戦前の世間が自信を失い、行政が施す教育一本槍になった団塊の世代から、ガンダム世代までがこんな感じでしょう。

この世代は学校教育に従順で、つまり、成績が良かった人ほど、性能のよい複写機ではあっても、創造力に欠如し、故に独立起業といっても、それはフランチャイジーの一員としてのものか、ショッピングビルに押し付けられた規約の中で行う「起業」が大半で、創造的な起業は「稀な例」に止まるでしょう。
与えられたマニュアルや規則を「憶えて、慣れる」で消化できる仕事を「マニュアル・レーバー」といいますが、僕らのスタンダードは、まさにこれだったわけです。

でも、このあたりは近くAIにしてやられます。

僕らは気の進まないことでも、真摯に働いている「ふり」をして凌いできましたが、AIは人間の作り笑いをたんなる形態としてとらえて、ここまでは完璧にトレースしてしまうようです。例えば、骨董趣味のお父さんが骨董自慢をするときのようなホントに楽しそうな(満足そうな)笑顔については、さすがのAIもコピー可能にするには、まだまだ時間がかかるようですが、「ふり」までは、僕らよりもはるかに上手くやる…

たぶん、次の東京オリンピックが始まる頃にはキャッシュ・オン・デリバリーのcafeやハンバーガー屋さんなどはPepper君みたいなロボットがいるだけになるか、あるいは無人でしょう。農業も建設現場もGPSの精度が上がって、すでにかなりの分野で無人化が可能です。顔認証があれば守衛さんもいらないし、一般的な「清掃」もロボットとAIのものでしょう。今、50歳代も半ばの僕は、下手をすればあと20年以上も働いていなければ食えませんが、それまで「マニュアル・レーバー」が保つとは思えません。

「経済成長のために」は、オールマイティな免罪符です。

一方、組織や集団で働くことがスタンダードすぎて、僕らはフリーランスな働き方を想像することができないというのもあります。

(工業生産時代は画一化の時代でもありましたから、その時代を長く生きてくると、物事たいていは「百花乱舞だ」ということを忘れてしまって、一種類か、せいぜい数種類の類型に全てが当てはまってしまうと思ってしまう。自営も給与で就業する人も、ライフスタイルに大差はないんだろうと信じ込んでしまうというわけです)

地域の自治会などに、退職後のお父さんが参加して「私は〇〇会社の部長だった」と自己紹介したきり「動かない」し有効な解決策を提案することもしないという話しを聞きます。もちろん地域の自治会に会社が与えてくれた「自分の部下」はいないのに…です。

工業生産時代の子どもは、よほどの変わり者でない限り、与えられた組織の中での位置付けを争うことはできても、自分で起業するということは「できない」「やろうとしない」がスタンダードです。故に独立起業といっても、それはフランチャイジーの一員としてのものか、ショッピングビルに押し付けられた規約の中で行う「起業」が大半で、創造的な起業は「稀な例」に止まるでしょう。

自分でつくったと思って、実は「与えられた」だし、そうは自覚していないのが工業生産時代の子どもでしょう。

だから、与えられないと何もできない。与えられてもいないのに「与えられた既成のもの」と同じように扱い、振る舞ってしまう。

行政にしろ、会社にしろ、近く 与えてはくれなくなるでしょう。
自分で、創造的に仕事を切り拓いていくヤツとは喜んで組みたがるでしょうが、年功序列にじっとしている人は歓迎されないだろうし、行政は貧乏な上に借金を重ねて、しかも上位層にこそ、そのお金を撒いている…

でも、この長寿社会に中高年な工業生産時代の子どもたちは、複写機で、集団生産の自分の分担のところにしか知識も経験もない。しかも、その歪さに自覚がなくて、我流に美味しい蕎麦が打てれば、それで「退職後に蕎麦屋」でなんとかなると思ってしまうし、その「蕎麦屋」からして(無意識のうちに)マス的な流行に乗ったもので、ライバルはたくさんいるというのがオチです。

世の中、荒れるでしょう。
誰もマニュアルをくれないし、指示もしてくれないんだから仕方ありません。

責 任

荷風のことでいじめられている息子さんを持つ荷風のご子息に「有名人の子どもだからって贔屓しない」とまで言い放った先生は、その後、どういった人生を歩まれたのでしょう。

僕らは大衆の一員である限り、社会にモノ申して聞き入れてもらえないかわりに、法に触れることを犯さない限りはその罪や責任を問われることもありません。だから「有名人の子どもだからって贔屓しない」とまで言い放った先生も、その後も「先生」業は続けられたのでしょう。

実質、権利の行使は難しいのだから、止むを得ないともいえます。これくらいのこと、みんなもやっているだろう…確かに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった状況もあるわけです。

「そうせよ」と命じられて、そうするのなら、それは他人の意思であって、僕の意識ではない。
全ては自覚に拠ることです。

よー、そこの若いの
俺の言うことをきいてくれ
「俺を含め、誰の言うことも聞くなよ」

よー、そこの若いの
君だけの花の咲かせ方で
君だけの花を咲かせたらいいさ

君だけの汗をかいたらいいさ

さぁ、どう生きていきましょう。